階段を半分ぐらい上って
振り返った

あそこにはもう 戻らない

決めて
また 手すりに力を込めた




Truth 〜 awe 〜





目的地に辿り着いて、俺は一度、息を吐いた。
それから、腕時計に瞳を落として。
指定した時間よりも早いことを、確認した。
それから。
人目に…付きにくい場所。
と考えながら、視線を巡らせる。
服は、抑えた色のものを選んで、着てきた。
帽子は、散々似合わないって、彼女に言われていたのを思い出して、やめて。
だからこそ、ここへ来るまで、いくつもの視線が向けられていた。
それをすべて、無視して、ここまで来たけれど。
それでもまだ、纏わり付いているし。
仕方なく、入り口のそばのベンチへと、歩を進める。
腰かけようかどうしようか、考えて。
結局やめて。
その植え込みのそばに、身を隠した。
彼女が気づいてくれること。
それを願いながら。
向けられる視線をシャットアウトするために、瞼を閉じる。
彼女が遅れることは、ほとんど、ないから。
あとは、彼女が気づいてくれること。
俺から顔を出すわけには、いかないから。
そうして、怒られたくはないから。
小さく笑みを浮かべて。
一度だけ瞼を上げて、空を仰ぎ見た。
そこは真っ青で。
彼女の好きそうな、色で。
吐き出した息は、真っ白だった。

瞳を閉ざせば、思い出すのは、ついさっきまでの仕事のことで。
時間に間に合うかどうか、ちょっと不安だった。
それでも、予定よりも少し、遅れただけ。
彼女が来るのは、五分から十分前。
時計をさっき見たら、十二分前。
だからそろそろ――なんて考えていた頃。
いくつもの視線の中。
違うものに気づいたのは、気のせいじゃないと思いたかった。
小さな足音が近づいてきて。
けれどそれは、止まったのか遠ざかったのか、聞こえなくなって。
それから。
ぶしつけな視線に、気づいた。
それが、ごく間近から注がれているとわかったのは。
わずかにした、吐息の音で。
薄らと、目を開けば。
飛び込んできたのは、蒼。
それに大きく目を見開いて、細めた。
「おまえ……」
「おはよう。お疲れのようだね」
変わらない、向けられた声に、少し驚く。
と同時に、額を叩かれた。
痛くはないけれど、そこを抑えれば。
彼女は俺に、背を向ける。
見続けていれば、言葉。
「ウチに行こ。ここじゃ、君は目立ち過ぎる」
相談も何も、あったもんじゃないでしょ?
言って、彼女は歩きはじめた。
それをぼんやりと眺めて。
変わって、ないんだな。
触れられた額から、手を離す。
彼女の、俺の扱い方。
それが変わってないことが、嬉しくて。
彼女についていくのが少し、遅れていた。

「今日は…暇なのか?」
隣りに並んで、そう聞けば。
彼女の蒼い瞳は、俺に向いてくれる。
ん? なんて言いそうな感じで。
同じ、視線と表情で。
「暇ですが?」
「…そうか」
「君は? 疲れてるっぽいから、仕事だった?」
「………」
「? 返事は?」
「……当たり」
素直に言えば、やっぱりねーなんて、声が落とされて。
瞳は俺から、外される。
それでも俺は、彼女を視界に入れたままで。
髪形は変わらず、後ろで一つに縛っていて。
ゴムの色は、同じ赤。
それでも少し、髪は伸びているかもしれなくて。
コートは、真っ黒で長め。
首に巻いたマフラーは、少し抑えた、赤。
「それ…」
「ん?」
「編んだのか? 自分で」
問えば、彼女は大きく目を見開いて。
それからマフラーに、顔を埋めた。
「うん。上手でしょ?」
「自分で言うな」
「むー…」
昔なら、後頭部をはたいていたのに。
それをするには、躊躇われて。
触れたいのに、躊躇うのは。
戸惑うのは。
やっぱりまだ、彼女を好きだからに、ほかならなくて。
「綺麗な色っていうか、気に入っちゃって。三日で作ってみたんです」
「三日?」
「三日。だから、そのー」
「?」
「返事が遅れた原因」
「………」
「仕事終わって、暇だなぁとか考えて。編み棒手にしちゃって。作りはじめて、時間経って。あー、ご飯作んなきゃーとか思ってたら。あ、メール! って、思い出す」
「…あのな」
「それを三日、続けてた」
さすがにそれには、呆れて。
彼女の頭の上に、手を置いた。
重いです。なんていう抗議の声は、聞かない振りで。
手を離して。
また、マフラーに顔半分を埋めた彼女の表情は、拗ねたようなもので。
だったのに、ぱっと顔を上げた。
視線の先には、スーパーの看板。
「ごめん、ちょっと買い物」
足を止めて、言って。
それから、だーっと、駆けていく。
……変わってない。
急に思い立って、行動するところ。
くすくすと笑いながら、出入り口から入っていった彼女の姿を見ていた。
ゆっくりと出入り口へと近寄って。
そこで、彼女を待つ。
今は、寒いけれど。
でも、どこかほっとして。
暖かくも、思う。
彼女に会うまでは、怖ささえも、抱いていたのだと。
今この時に、気づいた。
俺が、どうすごいのか、なんて。
俺自身は、気づいていなくて。
でも彼女は、気づいていて。
それでも彼女は、俺を一人の男として、扱ってくれる。
男というより、人間として。
だから俺に、変にこびたりもしないし。
距離を置くこともない。
それが、嬉しくて。
「…っと、ごめん、待たしちゃいました」
言葉を落として、彼女は出てくる。
出てくる前に、すでに俺がどこにいるか、わかっていたように。
それに俺は、驚いてた。
それと…本当に、『ちょっと』だと。
「早いな」
言って、つい、笑みを浮かべれば。
彼女も嬉しそうに、笑ってくれる。
「何買ったんだ?」
「牛乳」
「牛乳?」
「そ、牛乳。昨日大量に使っちゃってさ。んで、今日の朝、残りを飲んじゃったから、全然ないの」
「ないと困るのか?」
「…そう、だね。毎朝飲まないと、ちょっと気分が悪い」
「ふーん」
「でもね、収録のある日は飲まないけど」
言って、彼女は人差し指を立てて、左右に振った。
いちいち、何かしないと落ち着かないのか。
とにかく、大袈裟。
彼女らしい部分は、変わっていなくて。
それを言いたい気はするけれど。
俺には聞きたいこともある。
今、彼女が言ったこと。
その――理由。
「牛乳飲むと、胃に粘膜貼っちゃうのは知ってる?」
「知ってる」
「それと同様に、口の中にも膜貼っちゃうの。で、うまく口が回らなくなっちゃうから、僕は飲まないようにしてるの」
「………」
「何?」
急に黙った俺に、彼女は少し、首を傾げる。
理由は、わかったのだけれど。
新たな疑問が、俺の中に埋まれてた。
聞いても…大丈夫だとは、思う。
そんなことで、彼女が俺を嫌いはしないとは思う。
けれど。
聞き方が悪ければ、彼女は頬を膨らませてしまうだろうから。
言葉を探している俺を、彼女は待ってくれていて。
「メール見た時、思った」
「うん」
「今…聞いて、また思った」
「何?」
「変わってないんだな。自分のこと、そう呼ぶの」
「うん。変わってないよ?」
頷いて。
それから彼女は、顎に人差し指を当てて、また傾げる。
それから。
「今更変われないでしょう」
と、会話を再開させた。
「そうか?」
「そうだよ。女の子っぽい、とか言うんだったら、変われる要素はありそうなものだけど」
「…違うのか?」
「んじゃ聞くけど。僕のどこが女の子っぽい? 色気ないでしょ? 尽にもそう言われてるしさ。可愛いなんて、一度も言われたことないし。――あ、小さい頃はあったか。とりあえず、中学以降、一度もないし。君みたいに綺麗なわけでもない」
「……そうかもな」
「でしょ? だから、そんな僕が『わたし』なんて似合わないわけよ」
そんなこと、ないと思うけどな。
なんて言葉は、言えずに、彼女を見続けて。
かわいいなんて、何度も思ったのに。
けれどたぶん、彼女が言っているのは、見た目のことなんだろうと思うから、言えなくて。
俺が言う、彼女のかわいさは。
仕種とか、そういう部分的なものでしか、ないから。
彼女から視線を外して、考えていれば。
彼女は小さく、笑ったようだった。
それに、眉根を寄せて、彼女を見る。
ちらりと向けられた瞳は、また前方を向いてしまって。
彼女は表情を、笑みへと変える。
安心したような。
そんな、嬉しそうな笑顔。
「ちょっと…安心した」
「?」
「葉月くん、変わってないから」
「おまえも、変わってない」
「…そう?」
「ああ」
「そっか」
言い終わらないうちに、彼女は腕を上へと伸ばして。
んーっと、声まで漏らして。
伸びをする。
それに、くすくすと笑みを零せば。
今度は彼女が眉根を寄せて、俺を見る。
「何?」
「やっぱりおまえ、猫みたいだ」
「よく言われます」
よく言われるのに、直さないのか。
思いながら、笑い続ける。
と、彼女はまだ、渋面のままで。
何かを、考えているようで。
それに、笑いを止める。
「ふむ」
微かに聞こえた声に、彼女へと視線を移せば。
表情をなくした顔で、前方を見ていて。
そして、歩く速度を上げた。
言葉はなくて。
俺も、ほんの少し速度を上げて、彼女の背を追いかけていく。
角を曲がって、小さな、短い坂を上がって。
この辺に来るのは、初めてだ、なんて、考えていれば。
「葉月くん」
「ん?」
彼女が、俺を呼んでくれて。
それでも、瞳は向かない。
「笑ったの…いつぶり?」
「!」
静かな問いに、俺の歩みは止まってしまいそうで。
それでも何とか、歩き続ける。
――いつぶりかと聞かれれば。
諸岡さんのところでも、笑ったし。
ごく最近。
でも。
こんな風に、楽しい気持ちになったのは、本当に――久しぶり。
他人の気持ちも、何も。
考えないで、笑ったのは――…。
いつぶり、だろう?
考えるのには。
思い出すのには。
邪魔になるような喧騒も、ここからは遠くて。
なのに俺は。
「…………」
答えを、出せないまま。
彼女の言葉は、何もなくて。
背中を見ても、何も、言ってはくれなくて。
角を曲がって。
すぐあった、小さな門を、彼女はくぐった。
「ここの二階。確実に、葉月くんの住まいよりは狭いと思うけど、遠慮なく不満を零してやってください」
急に振り返って、彼女は言って。
また、俺に背を向けて、歩き出す。
階段を上っていく、その背に。
小さく、息を吐いてから、あとを追いかけた。

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