自分のことには気づいていても。
相手のことには気づいていない。
それはやっぱり、自分のことで精一杯だから…。
mit gemischten
Gefühlen 7
離れていくその背中を見て、一度だけ微笑う。
と、氷室先生が大きくため息を吐いてた。
諦めの、ため息。
「益田から聞いて、いることは知っていたが」
紡ぎながら、先生は背もたれへと、身体を預ける。
そうしながら、腕を組んで。
もう一度、吐息。
「君たちは何がしたい…いや、聞きたい?」
問われて、少し考えたけれど。
「わかってるんじゃないですか?」
そう、答えを返した。
ちらりと後ろを振り返って、先生は今度は小さく、息を吐く。
「それと、前から言おうと思っていたんだが」
「?」
「私はもう、君たちの先生ではない」
「でも――俺達の恩師であることに、代わりはない」
「………」
「あいつなら…そう言って、あんたのことを言い包めてる」
氷室先生には、今でもいろんなことを教わってるから、『先生』でしょう?
違う?
前に、今の問いと同じことを、彼女にしたことがあって。
彼女は平然と、そう言い放った。
「自分よりも長く生きている人に、敬意を払うことは当然のこと。あいつは前に、そう言ってた」
「なるほど」
ふっと笑って、先生はグラスを傾ける。
それから。
「はっきり言うが、彼女とは何もない」
と、単刀直入に言い放ってきた。
そうだろうとは思っていたから、急な発言に驚いたぐらいで。
他には特に驚きもせず、「そうですか」と、言葉を返す。
彼女だったら、つまらない、とかって、ぼやきそうだけれど。
「まだ…ですか? それとも、これからも?」
「そこまで立ち入るのか?」
「あいつが聞きたがってるんで」
「………」
「相手の出方を待ってる…とか言うんだったら、べつですけど」
「?」
「玲はたぶん。すぐにでも、中里先生に行動を起こさせるから」
「……どうしてわかる?」
「どうしてって…?」
「彼女は俺のことを煩わしく思っているかもしれない」
初めて聞いた単語に、驚いたけれど。
なるほど、なんて思ってた。
これは本音。
ある意味、彼女と同じ。
彼女も本音の時、自分のことを『わたし』って言ってたから。
高校の時。
それよりも…。
考えながら、先生を見る。
眉間に深く、皺を寄せて。
視線を逸らして。
自信を持てないっていう、顔をしてる。
「彼女が何かをしてしまった時、必ず彼女の手助けをして。恩を押し付けて。本人は放っておいてほしいと思っているのかもしれないのに、無理矢理そばにいることを知らせている。らしくもないが……引き際がわからない」
「けど、相手はそれをありがたく思ってる」
「…そう、思えるのか? 君には」
「思ってる」
「……」
「じゃなければ、ついてこないと思う。一緒にどこかに行こうなんて、思わない」
「…そうか?」
「煩わしいなら、必要な時以外――こんな、極々プライベートな時間まで、一緒にいたいなんて、思わない」
「……しかし、ここには益田が…」
「彼女がここに来たがるのは、あんたのテリトリーで知っている場所が、ここだけだから、とか…考えないのか?」
「!」
眉を一瞬、上げて。
それから、先生はまた眉根を深く寄せた。
考えてなかったんだな。
短く息を吐いて、意見を述べていく。
今の関係に、名前を付けられないなら。
無理矢理にでも、付けてしまえばいい。
そんな出来事を、起こしてしまえばいいだけのこと。
「相手の気持ちを知りたいなら、自分しか知らない場所へ連れていった方がいい」
「………」
「特別な関係って、秘密の共有から始まるものだろ?」
彼女がここにいたら、確実に怒られてるんだろうな、なんて、言ったあとで思った。
敬意を払うのが当たり前、なんて、彼女は言ってたのに。
俺は今、この目の前の相手に、敬意を払ってはいなかったから。
唯一、『先生』って呼んでることぐらい…だろうな。
思って、考え込んでいる先生から、視線を外した。
俺を見ていた彼女と目が合って。
ふっと笑みを零すと。
彼女も笑んでいた。
その笑みが濃くなって、手招きしてくる。
どうやら、戻ってこいっていうことらしい。
それに、腰を上げても、先生は何も言わずに、まだ思考を巡らせていた。
ゆっくりとした足取りで戻ると、彼女は中里先生の隣りへと座り直していた。
奥へ座って。
最初、彼女が座っていたのとはべつの場所に。
ちょうど、俺が座っていたはずの場所に。
「氷室先生、何だって?」
わくわくしているのが、すぐにわかって。
好奇で満ちた瞳で、俺を見てた。
それに微笑いながら、彼女たちの前へと、腰を下ろす。
「そっちは?」
「何もないって」
「当たり前でしょう?」
「俺も同じ」
「だから、当たり前なんだって言ってるでしょう!?」
必死に言葉を紡ぐ先生に、二人で笑う。
前から思ってたけど、本当にこの人のことを年上だとは思えない。
「氷室先生にどう思われてるかなんてわからないんだし」
「嫌ってはいないと思います」
「それは…玲ちゃんにも言われたの。嫌っていたら、ここに連れてこないだろうって。こんな時間まで、一緒になんかいないって」
「一緒にいたいって思うから、一緒にいようって言ってくれるんですよ。それって当たり前じゃないですか」
「今日は私がここに来たいって言ったのよ?」
「それでも同じだと思います、俺も」
「………」
「嫌いだったら、『場所わかってるはずでしょう?
ですから、一人で行ってください』って言うと思います」
「けど、氷室先生は嫌な顔を一つせず、ここに連れてきてくれるんでしょう?」
「うん…」
「だったら、嫌われてませんって!
自信持ちましょうね?」
コクンと頷いて、先生は息を大きく吐いたあとで、顔を上げた。
笑顔。
「何か、すごい自信持てちゃう。結婚してるからかな?
二人が」
彼女を見れば、同時に見られて。
目が合って。
「まぁ…そういう面で言えば、中ちゃん先生よりも経験はあるっていうことになるの…かな?」
「かもな」
彼女は考え始めて。
中里先生はにこにこと笑って。
「頑張ってみるね。応援してくれてる二人に、悪いしね」
って、紡いでくれた。
嬉しそうに笑った彼女に、もう大丈夫なのだということを知って、俺も笑みを浮かべる。
と、視界の端で、立ち上がった人物がいたことに気が付いた。
焦点を合わせて、彼女の名を呼ぶ。
瞳を向けてくれた彼女にわかるように、小さく知らせれば。
彼女はちらりと瞳を後方へと滑らせる。
俺が知らせたかったことに気づいて、彼女の笑みはますます濃くなった。
中里先生は「何?」って首を傾げていたけれど。
「氷室先生、帰るみたいです」
彼女が落とした言葉に、大きく振り返って。
急いで、立ち上がった。
「ご、ごめんね? 私、戻るね?」
紡いだあとで走り出して。
店員にぶつかったりしてたけど。
結局それに、氷室先生の助けが入ってた。
彼女はくすくすと笑い続けてて。
「このまま真っ直ぐ帰ると思う?」
「思わない」
「……何言ったの? 氷室先生に」
「べつに。当たり前のことしか言ってない」
「…氷室先生って、結構そういう、柔らかい部分の常識ってわかってないよね?」
「固い部分はわかっててもな」
二人で顔を見合わせて、また笑って。
「君らさぁ。客を減らすようなこと、しないでくれるかなー?」
二人が店を出ていったあとで、そう言いに来たマスターに。
謝罪の言葉を綴りながらも、また笑ってた。
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