| 僕はここから動けない 足は重い土の中に埋まってしまっているから
けれど 君には会いたいんだ
腕を遠くに伸ばすことは出来るけれど
きっと 君の元へと届く頃には
かなり年月も経っていて
君は僕のことを忘れているか
もしくは 僕の姿は今と変わっているかもしれない
だから君が会いに来て
周りの景色が移り変わっても
僕は変わらずここにいる
君が触れてくれるのを
ここでずっと 待っている
キズ 〜 ギセイ
〜
彼が手を取ってくれたあの時。
前と同じ体温で、安心して。
変わっていない体温に、嬉しくなって。
抱き締めて欲しい――なんて、わがままを口にしそうになっていた。
願ってはいけないことなのだとわかっていながら。
……わかっていたから。
わたしはあの手を。
握り返せなかった。
ふわりと浮かび上がる感覚があって。
頭の奥で、誰かの声が聞こえた。
わたしの名前を呼ぶ高い声。
それに確か、菜穂子さん、だったっけ…なんて、名前を思い出してた。
たった一度しか会ったことのない、女の人。
その名前と声。
思い出しながら、ここ、どこなんだろうって考え出した。
柔らかい場所に降ろされて。
身体がわずかに沈んだ。
それを無意識に受け止めてから、わたしはふっと、重い瞼を上げる。
「菜穂子さん……?」
「覚えててくれたのね。嬉しいわ」
にっこりと微笑まれて。
わたしも微かに笑った。
笑おうとした。
でも、頭がぼんやりと霞がかっていて。
「無理しないでいいわ。おかゆがもう少しで出来るから、気分がよくなったら、食べてちょうだいね?」
こくん、と小さく頷くと。
額に、手が置かれる。
冷たい手。
気持ちがいい。
「玲ちゃんが化粧なんてしてるから、絶対何かあったなって思ったんだ」
近づいてくる声に、わたしはすべてを思い出す。
そして、ここはやっぱり、熊谷さんの家なんだって自覚して。
「顔色が悪いのをカバーしようとしたって、プロの目は誤魔化せないよ」
「プロ…?」
「Jinくん。君の弟、尽くんのメイクを担当してる」
「そうですか……」
「Jinくんが俺に教えてくれたんだ。じゃなきゃ、俺だって気づかなかった。言われて、君の顔を遠目からだけど見て、確かに顔色悪いなって思った」
手が離れて、代わりに冷たいタオルが当てられる。
「貧血よ。車の中で気を失ってよかったわ。ケガとかしないですんだものね」
優しい、慈悲に満ちた笑みに、ほっとした。
「加えて、軽い栄養失調。当たり前かな。食事、してないんだろ?」
「少しなら…食べてますけど」
「一口二口、なんて、食べた事にはならないよ?
玲ちゃん」
先手を打たれて、苦笑するしか出来なくて。
わたしははぁー、と長く息を吐いた。
そばにいた菜穂子さんが離れていって。
それなのに、熊谷さんはそばには来てくれない。
ソファに寝かされていることに気づいたのは、そのあとで。
足が肘置きのところにあって、高くなっていることにも、気がつく。
貧血の時は、頭に血を流さなきゃならないから、そうした方がいいんだよね?
革張りのソファ。
冷たくて、わたしは頬を摺り寄せる。
「無理、し過ぎたね」
目を閉じて、肩から力を抜く。
「いつから食べてないの?」
「彼と別れて…一ヶ月ぐらい、経った頃から。それまでは、食べてましたけど…量はどんどん、少なくなっていって」
「全く食べなくなったのが、その日?」
「はい」
「理由は?」
「……気づいてるんじゃないですか?」
問い返せば、熊谷さんはすぐに返事をしなくて。
瞳を向ければ、やれやれって零して、そばに腰を降ろしてくれた。
「だから言ったんだ。俺と不倫しようって」
笑って言われたから、わたしも笑った。
その時に足音が響いて。
小さく笑い声も耳に届けられる。
「あなた、まだ言ってたんですか?」
菜穂子さん。
熊谷さんの奥さん。
初めて見た時、ものすごく優しそうな人だなって思ってた。
話したらその通りで。
暖かくて、ほっとしてた。
そんな人が、楽しそうに笑いながら、近づいてくる。
手元には湯気。
おかゆ…かな? さっき言ってた。
「当たり前だろ? 俺はいつだって本気だ」
「はいはい。玲ちゃん、食べたいって思ったら、食べなさいね?」
こくん、と頷く。
お母さんみたいだって、思った。
帰ろうかな、一回。
ぼんやりと、そう思ってた。
そばのテーブルの上に置かれた陶器のお皿。
湯気はそこから出ていて。
中をちらっと見たら、野菜が結構入ってた。
卵も入ってて。
おかゆというより、ちょっとした煮込み。
「食べたいって思ったら、じゃなくて、絶対に食べなきゃダメだよ?」
「あなた。押し付けたら何にもならないじゃないですか」
「だからって……!」
「いいです。食べたいなって、思ってますから」
くすくす笑って、わたしは額に置かれたタオルを取って。
ゆっくりと身体を起こす。
その背中を支えてくれたのは、熊谷さんじゃなくて、その奥さん。
熊谷さんはすぐに、菜穂子さんに場所を取られたみたいだった。
菜穂子さんの後ろで、何とも言えない顔をしてる。
「でも、もうちょっと経ってからでいいですか?
熱いの、食べられなくて」
「あら、猫舌なの?」
「はい…」
申し訳なく言うと、菜穂子さんは少し嬉しそうな表情を浮かべてくれて。
「何か飲みたいものはある?」
そう、聞いてくれた。
それにとりあえず、冷たいものを、と頼んで。
わたしは熊谷さんに視線を移す。
「死ぬ気だった?」
問いに、ふるふると首を振る。
「本当に、ただ食べたいっていう気が起こらなくて」
「冷蔵庫の中は?」
「一応入ってますよ? この前、友達と買い物に行ったんで。でも、それ以来、手は付けてないんですけど」
「………」
「牛乳は飲んでましたけどね、毎朝。あと、お菓子を時々つまむぐらいで」
「そんなこと、報告するようなものじゃないよ、玲ちゃん」
笑いながら、手を伸ばす。
暖かさにまず、ほっとして。
わたしのために作られたっていうことに、きちんと食べてあげないとって思った。
「一週間くらい前だっけ? 会食、あったよね?」
「ありましたね」
「その時は? 何か…口にした?」
思い出すために口を閉じる。
何か食べた気がする。
会場に入った直後に、彼の姿を見止めちゃって。
彼に見つからないようにって、必死だった。
ノンアルコールのシャンパンを受け取って……。
「ラスク…一枚と」
「と?」
「チョコレートのケーキ。何か、おいしそうだったから……」
ポツリと零せば、熊谷さんは大きく息を吐いて。
わたしはそれを聞きながら、そばに置いてあったスプーンを手に取った。
床へ滑り落ちるように降りて。
いただきます。
手を合わせて、小さく言う。
「急に入れない方がいいよ。胃がびっくりするからね」
注意に、わたしはスプーンの先で、ほんのちょっと掬って。
息を吹きかけてから、舌先で舐めてみる。
味、あんまり濃くない…。
「大丈夫よ。お塩だけでしか味付けてないから」
目の前に置かれたものを直視して。
それから目線を上へと移動させる。
「ハーブティー。飲めるでしょう?」
言葉もなく頷いて。
それから、甘えてしまっているってことに、気が付いた。
「あ、…ごめんなさい」
スプーンを置いて、頭を下げる。
「玲ちゃん?」
「えと、その……」
「心配を掛けてしまったことに対して謝っているなら、素直に受け取っておく」
熊谷さんの言葉に、はい、と答える。
「でも、今、君の目の前にあるものを、俺たちが用意したことに対してなら、受け取れない」
顔を上げて、熊谷さんを見る。
と、当たり前でしょう? って、別方向から声が上がった。
「当たり前…ですか?」
「そうよ。この人はね、あなたのことが可愛くて仕方がないの」
「…?」
「じゃなきゃ、不倫しようなんて言わないだろ?」
「そうじゃなくて」
菜穂子さんは苦笑。
わたしはそれに、首を傾げて。
「玲ちゃんはね、この人の初恋の女の子にそっくりなのよ」
「はぁ……」
「………」
「ね? 徹さん。玲ちゃん、昔のわたしにそっくりよね?」
「へぇー……って、えぇ!?」
言い放った菜穂子さんは、にこにこ笑う。
熊谷さんは視線を外すことなく、わずかに菜穂子さんを睨んで。
「さん付けで呼ぶなよ、白々しい」
って、零した。
「あら、呼び捨てていいんですか?」
「おまえにそう呼ばれると、気持ち悪い」
「はいはい。じゃ、何かあった時はそう呼びましょう」
目の前ではよくわからないけど、惚気られてる…のかな?
わたしの脳は、その機能をうまく果たせていなくて。
えと、ちょっと整理。
なんて、考え込むのがやっとだった。
前に聞いたこととか思い出しつつ、わたしはひとつひとつを考えていく。
熊谷さんと菜穂子さん。
幼なじみだって、前に聞いた。
だからあんまり面白くないって。
初めて知るってことがなくて、つまらないって、熊谷さんは零してた。
それはそうかもしれないって、わたしは考えた。
幼なじみって事は、昔から――子供の頃からずっと一緒ってこと。
知らないことなんかないってぐらい、そばにいたのかもしれないし。
その直後に、わたしを見て、ニコッと笑った熊谷さんは、あの言葉を発し始めたわけで。
「つまり…そのー……」
「何? 玲ちゃん」
「熊谷さんは、菜穂子さんと…その、もう一度恋がしたいってことになるんでしょうか?」
問い掛けたわたしに、二人は顔を見合わせて。
「そうなるの?」
「…さあな」
菜穂子さんに重ねて聞かれて。
熊谷さんは少し頬を赤くして、顔を逸らした。
へー、そうなんだ。
くすくすと、わたしは笑う。
「嫌な人よね? 本当のことを口にしないんだもの」
「菜穂子さん、僕にやきもちとか妬かなかったんですか?」
「ええ。嘘だってわかってたし、玲ちゃんが必ず断ってくれるって知ってたから」
「いいですねー」
「気持ちは変わらないのにね。子供たちがみんな、手を離れてくれて。ようやく二人での生活が、また始まるんだって、私は結構嬉しかったのに」
「そうなのか?」
「そうよ。徹を好きな気持ちは変わりません。じゃなかったら、私はここにはいないわよ」
その考え方に、本当に似てるんだって、嬉しくなった。
言葉にしなくても、行動でわかって欲しいっていう部分。
わたしも一緒だから、よくわかる。
言葉にすると、何だか嘘っぽく聞こえてしまって。
自分が口にしてるはずなのに、そう聞こえちゃって。
だから、何も言えなくなる。
「矛盾してるけどね。相手にはきちんと、言葉で届けてって頼むくせに、私のことは行動でわかって欲しがるの」
「でもそれも、言葉で言えないんですよね?」
「そうなの。それさえも、行動でわかってって思うのよ」
フフッと笑って、菜穂子さんは正座を崩した。
一緒だ、やっぱり。
「玲ちゃんはやっぱり、私に似てる。それに気づいたから…徹はこうなるんじゃないかって思ってた。徹から聞いた時にね、私が頼んじゃったのよ。もし、あの二人が別れるようなことになったら、必ず、玲ちゃんは生きる目的を失ってしまう。無意識に、生きていても仕方ないって、そんな行動に出始めるからって。そうなった時に、支えてあげたいから、見ていてあげてくださいってね」
わたしは――結構幸せなのかもしれない。
幸せっていうもの、それがどんなことを差しているのかはわからないけど。
わたしのことをわかっていてくれる人はいる。
わたしが知らないところで、わたしのことを気に掛けてくれている人はいるんだ。
そのことがありがたくて。
わたしはひとりじゃないんだって、強く、そう思った。
「さ、食べちゃいなさい」
「そうしたら、よく眠ること。今日は泊まっていきなね?
玲ちゃん」
優しい言葉に、こくんと頷いたけど。
溢れてきたものに、わたしは顔を上げることが出来なかった。
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