音を奏でられるはずなのに
僕ひとりでは
それは出来ないことに変わってしまう
誰かが僕を使って音を奏でてくれれば
実はそればっかり
考えていて
音を整えてくれる人とか来てくれて
僕のことを少しいじってくれて
でも結局
小さな手が大きくなるまでの
そんな長くて短い間
僕のことを弾き続けてくれるのが
実は一番
嬉しいんだよね
キズ 〜
ヘンカイ 〜
荷物をまとめ終えて、ほっと息を吐く。
家具は備え付けのものばかりだったから、持ってきたものだけを、ここに来た時と同じようにまとめただけだった。
視界に入った左手の薬指には、戻ってきた銀色があって。
わたしはふっと笑う。
何か、わたし自身、こうでなくちゃって思うんだよね。
ベッドを一度叩いて立ち上がる。
左腕は、ほんの少しだけ、指先だけだけれど、動くようになって。
もう少しだねーなんて、午前中。
病院を出る直前に医者に言われた。
看護婦さんたちの視線が少し痛かったけど。
彼がその左手を握っていてくれたから、結構平気だった。
足先で一度、荷物を蹴る。
と、ドアが開けられた。
振り返らずに、息を吐く。
「ノックしようよ」
「…あ、悪い」
「もうー。感慨も何もないじゃん」
振り向いて、頬を膨らませる。
それでもすぐに、笑みを浮かべた。
何も言わなくていいのかもしれない。
ただただ、今は嬉しいし。
心配なこととか、たくさんあるけど。
自分のことだけ考えてるわけにもいかないけど。
今はとにかく、嬉しいから。
「氷室先生にお礼言いたい」
「そうか」
「うん。それから、呆れないでね?」
「?」
「子供だからさ、わたし」
「玲」
「ん?」
「俺、はっきり言えば、まだ…答えは出てない」
「うん…」
頷いて、言葉を待つ。
答え。
『わたし』が今、『わたし』かということ。
自分だってわからないものを、わたしは。
彼に答えを委ねている。
自分勝手だな……って思う。
「でも、これだけは言える」
続いた言葉にほんの少し、首を傾げれば。
彼は微笑んでくれた。
何?
言わずに先を促せば、彼は同じ表情のままで目の前に立って。
前髪がかき上げられて、やっぱり額に唇が落ちた。
「俺、今のおまえが一番好きだ」
「………」
「だから、おまえが嫌だって言うことは、したくない」
「………」
じっと、彼の綺麗なグリーンの、その瞳を見つめて。
それから、顔を俯ける。
どうして彼は、こんなにも、わたしが欲しい言葉とかをくれるんだろう。
「やっぱり、おまえがいい」
「紗枝さん、綺麗だったのに?」
「それでも」
「お似合いだったよ?」
「おまえに言われても嬉しくない」
「じゃあ、他の人だったら嬉しいんだ?」
「……嬉しくない」
「嘘吐き」
「だな」
二人でくすくす笑って。
落ち着いたあとで時計を瞳に映せば、もうすでに夕方っていう時間で。
仕方ないのかな?
彼が手伝ってくれたとはいえ、右手一本で頑張ってたわけだから。
そんなことを考えたあとで、わたしは彼に視線を移した。
言いたいことはわかってるみたいで。
彼はわたしがまとめたものを手にして、部屋から出ていく。
わたしが来た時に姿を戻した部屋を振り返って。
一度目を細めたあとで、彼を追うためにわたしも部屋を出た。
鍵を閉めて、引き抜いて。
一度、手の中で音を立てる。
そうしながら顔を上げれば、彼はそこで待っていた。
「行って、待っててくれる?」
「氷室?」
「そう。ちょっと話したいから」
「いるのか?」
「さっき電話したらいたけど?」
言えば彼の眉間には皺が刻まれて。
…言わなくていいことを言ったかもしれない、なんて、わずかに後悔してた。
「でもあの、先生だし」
「今は何でもないだろ?」
「でも…えっと、中ちゃん先生がいるじゃん、氷室先生」
機嫌は出来れば損ねたくないから。
頑張っていろんなことを思い出す。
彼は考えていたみたいだけど、それでも「そうだな」と納得してくれた。
エレベーターまで歩いて。
そこで彼とは別れる。
小さく手を振って、わたしは階段へと足を進めて。
「珪」
階段へと足を掛ける直前に、そう、声を掛けた。
彼は振り返ってくれて。
ちょうどやってきたエレベーターが音を立てて扉を開ける。
「先に行っちゃわないでよ?」
「さあな」
「行かないでよ?」
少し声を低くしてゆっくりとそう言えば。
彼は少し意地悪な顔をして、軽く手を挙げて。
エレベーターの中へと入っていってしまった。
「多分、行かないとは思うんだけど」
考えながら階段を上がっていく。
行かないとは思う。
思うけど…遅くなると、機嫌は悪くなるんだろうなぁ……。
笑みを浮かべて、歩を早める。
あまり待たせたくはないし。
何よりわたしが、早くそばに行きたい。
階段を上りきって顔を上げる。
少し上がった呼吸に、運動不足かなぁ、とか考えて。
そのまま歩き出すと、すぐに、ここに住んでからというもの、見慣れてしまった姿が見えてくる。
自分の家の玄関の前。
連絡を入れてからずっと、あそこで待っていたのかなーとか思いながら、わたしは口を開いた。
「氷室先生!」
呼び掛ければ、瞳が振り向いてくれて。
いつかと同じような柔らかな笑みが、そこにはあった。
時を経ても変わらないと思う。
「田端、腕の方は……」
「誰から聞いたんですか?」
「この前、藤井が学校の方に来て、それで聞いたんだが……」
「そうですか」
「それで?」
心配そうな顔。
初めて見たかもしれない、なんて――思った。
それに笑みを浮かべて、一言。
「大丈夫です」
そう、届けた。
「そうか」
「でも…ないですけど」
「? 何だ、それは?」
「未だに腕の方は一切動かないんです。でも、指先は、今日の朝起きたら、動くようになってました」
示すみたいに、少し意識して動かす。
朝よりも少し動くようになったかもしれない。
思って、笑みを浮かべた。
気の持ちよう――なのかな、と思う。
すべてにおいて、そうなのかな、って。
――今日、見た夢は、そんなものなのかもしれない。
内容は覚えていないけれど、起きた時には涙を流していて。
動かないはずの左手は、天井へと伸ばされていた。
無意識っていうのは、本当に時に驚くもので。
それに気づいてしまったら、左腕はまた、一本の棒のようになってしまって。
真っ白なシーツの上へと力なく落ちてしまった。
それでも、指先は動くようになっていた。
「じきに動くようになりますよ」
明るく言えば、深々とため息が零されて。
「君は本当に変わらないな」
なんて、呆れられた。
でも。
すぐにふっと笑われて。
「けれど、それが逆によかったのかもしれないな」
と、氷室先生はわたしへと届けた。
「戻るのだろう? 言っていた、彼のところへ」
「…はい」
「答えは?」
言われて、少しだけ悩んだ。
どう言えばいいんだろう、って。
けれど結局、そのままを伝えることにした。
「簡単なことがわかっていなかったんだなって。それだけ…ですね」
「初歩的なミスか? それは」
「そうですね。だからこそ、かもしれませんけど。一緒にいる時間が長くなると、心の中のことそのままを口に出さなくなるってこと、あると思うんです」
「君たちもそうだったと?」
「いえ、逆です。二人とも、そのままを伝えていた。けれど、勘ぐってしまったんです。彼はわたしの言葉を。わたしは…勘ぐらずに、彼の言葉のそのままを受け入れていたから、おかしくなった」
「………」
「難しいですね。何か。それでも――これからは平気じゃないかって思うんです。繰り返すかもしれませんけど、わたしは、わたしの思いを彼に伝えていこうって思ってますんで」
愛してるは愛している。
そんな簡単で単純なことを、わたしたちは忘れていたってことなんだと思う。
「考え方が違うから、相手を欲しいと思う。同じなら、そばにいて欲しいって思う。わたしたちは似ているようで違ったから、この二つの思いがここにはあるんです」
「難しいな、やはり」
「それでも、考えていけばいくほど、おもしろいですよ?
理屈じゃないですからね。いろいろと」
そばにいて、暖かさを届けてもらえればそれでいい。
とりあえずは、だけど。
きっとずっと、そんな感じで行くんだろうって思う。
「とにかく、また何かあったら言いなさい」
「相談ぐらいには乗るから…ですか?」
「そうだ」
「アドバイスも答えもくれないのに、ですか?」
「そういったものを欲していない相手には、何を言っても無駄ではないのか?」
言われて、わたしは微苦笑う。
確かにそうだ。
わたしが欲しいと思うのは。
わたしの考えがあっているのかそうでないのか。
その答えだけだから。
「バレてますねぇ」
「君よりは長く生きているからな」
「経験の差もありますか」
くすくす笑って、わたしはお辞儀を一つする。
お世話になりました。
そう届ければ、氷室先生はにやりと笑って。
「葉月にあまり、迷惑を掛けないように」
なんて、驚いていたわたしを、ますます驚かせてくれた。
バレてましたか、それも。
思いながら苦笑して。
わたしはもう一つ、頭を下げる。
ここに戻ってくることはあるんだろうか?
なければいいな。
考えて笑って。
氷室先生へと短く言葉を発して、踵を返した。
言ってもいいですか?
わたし、ここを三ヶ月ぐらい出てたよね?
何で、わたしの部屋はそのまま、変わりなく存在してるんでしょう?
荷物を解いて、小物類を同じ場所へと配置していく。
そう言えば、高校時代。
わたしが彼の家に来た時にちょくちょく使っていた『わたし専用のカップ』も、この家にはあった。
引っ越す時に持ってきた、とか言ってたっけ。
それでも、使ったような形跡はなかったんだけど。
「玲」
また、ノックもなしに、彼はこの部屋に足を踏み入れた。
別にいいんだけどね?
扉は開けっ放しだったしさ。
「何?」
振り返って彼を視界に収める。
扉近くの壁に背を預けて、彼はわたしを見ていて。
「夕飯、どうする?」
そう、言葉を綴った。
「あ、そっか。どうする? 食べに出る?」
「俺としてはおまえの手料理が食べたい。昨日言っただろ?」
「うん。そうなんだけど。僕、左手動かないじゃん?」
「………」
「だからね、僕としては、君に作ってほしい」
「……」
「言いたいことがあるなら、どうぞ?」
促せば、彼は少しの間、じっとわたしを見て。
それから、口元へと手を当てた。
その反応は何?
何か、よからぬことでも考えた?
「食べに出る」
ポツリと零された言葉に、短く息を吐く。
はいはい、なんて答えれば。
彼は続きを言うべく、視線をさまよわせているみたいに見えて。
「珪?」
「でも、二人でいたい」
なるほどね。
脱力して。
「んじゃ、何か頼もうか」
そう決めた。
んだけど、それも何か不満みたいで。
「なぁにぃ?」
眉間に皺を寄せて聞けば。
彼は視線を逸らした。
「言いたいことがあるなら言ってくださいって言ったよね?」
「べつに…そこまで言いたいわけじゃない」
「嘘吐き。言いたいこと言わないと、ストレス溜まっちゃうよ?」
「それはおまえだけだろ?」
「みんなそうじゃないの?」
聞き返せば、彼はわたしへと近寄ってきて。
その顔をずっと見つめていたわたしは、彼に軽々と抱き上げられていた。
「ちょ、ちょっと?」
俗に言う、お姫様抱っこじゃなくて。
膝の辺りを抱えられて、立ったままの状態で持ち上げられてる感じ。
不安定で、どうしようもなくて。
足をばたつかせることも出来なくて。
とりあえず、右手で彼の肩を掴んだ。
「下ろしてよ」
「嫌だ」
「じゃあ、どうするつもりなんですか!?」
混乱してる、わたし。
敬語使っちゃう時って、そういう時が多い。
もちろん、無意識にって意味だけど。
「なぁ」
「何?」
わたしよりも低い位置にある彼の顔を見下げて、ちょっとだけ必死。
怖くはないけど、不安。
何だろう?
「珪?」
嫌な予感がするのも、何でなんだろう?
……なんて。
わかっているくせに、考えないようにして。
そうこうしていると、彼はわたしを抱き上げたまま、部屋を出てしまって。
下ろされたのは、リビングのソファの上。
――に座った、彼の膝の上っていうのが、厳密に言うと、正解。
一回床に下ろされたと思ったら、くるりと方向転換させられて。
背後からしっかりと、抱き込まれてしまって。
はっきり言うと、動けない。
「あの、逃げませんが?」
「ん」
「……満足してる?」
「してない」
「いや、その…君がしたいことはわかるけど、今は夕飯をどうするかってことを話してたはずだよね?」
「ピザが食いたい」
「じゃあ、電話しよう? その前に、何を頼むか決めて」
「俺が決めて、電話しとく」
「わたしはどうすればいいの!?」
「寝てるんだろ? きっと」
「いーやーだー!」
腰に回っている彼の手を叩いて、抓って。
足をばたつかせて。
腕の力が怯んだ隙に、どうにかこうにか逃れてみる。
と言っても、絨毯の上に、座り込んだだけ。
「嫌なのか?」
「今は嫌」
「………」
「別にするのが嫌って言ってないんだからいいでしょ?」
笑んで立ち上がる。
手を伸ばせば、それは取られて。
まだ座ったままの彼に、近づいて、口付けた。
触れて、すぐ離れたけど。
やっぱりちょっと離れがたかった。
「好きだよ。愛してる。――なんて、言葉だけじゃダメなことはわかってるけど、まだ……その…」
傷、消しちゃえばよかった。
目の前に立って、服の上からそこを触る。
何針だったか忘れたけど――思い出したくもないけど――縫ったって、医者が言ってたし。
整形手術でも何でもして、消してしまえばよかった。
「ああ、傷か」
わかってしまったらしく、彼はわたしの手を退ける。
あんまりいいものじゃないよ、とか思いながら、わたしは袖を捲ろうとするその手を遮った。
「玲?」
「綺麗じゃないから、見ない方がいい」
「………」
「消せるって、言ってたから、今度行った時に、頼んでくる。一週間ぐらいの入院で、平気みたいだったし」
「いい」
短い言葉が意味するものがわからなくて、わたしは二・三度、目を瞬いた。
そんなわたしに気づいたのかそうじゃないのか、彼はもう一度、今度は的確な単語と結び付けて、その言葉を放った。
「消さなくていい」
どうして?
言えずに、それは喉の奥にこびりついて。
わたしはただ、顔を顰めることしか出来なくて。
「消さなくていい。ここに…置いておいていい」
抱き寄せられて、服の上から、そこへと唇が押し当てられて。
「俺が間違えた、その罰なんだから。ここになければ、意味がないだろ?」
理由を、彼はそう、述べた。
それを言うなら、これはわたしへの罰。
みんながわたしの幸せを願っていたのに、それを自分から放棄した。
その――罰であり、証。
「そう…だね、これは残しとく。わたしへの戒めに」
「?」
「珪が、この傷を見る度に顔を歪めて。その表情を見る度に、わたしは胸を痛めて。バカなことを、前にやったんだって、そう、思い出すために」
「……ばかか?」
「その通りだもん。否定はしないよ」
くすくす笑って、彼のことを抱き締めた。
「大丈夫だよ。もう、決めたから」
「…何を?」
「わたしは、わたしが笑えるようなことだけをし続けるって」
だって、わたしが笑っていれば、あなただって笑ってくれるでしょう?
耳元で問い掛けても、言葉で答えは返らない。
抱き締めてくれた腕が、答えを物語っているって知っていたから。
わたしは何も言わなかったのだけれど。
「さて、電話しないと!」
そう発して。
渋がる彼の表情を見ないふりで、そこから離れた。
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