ここに来て
一度も――誉められたことなんかないけど

僕が開けられれば 誰かは必ず
僕を瞳に映してくれるから

僕に向けてくれているわけじゃないけれど

笑顔も見せてくれるから

たまに――怒っていたり 泣いていたりもするけれど

そういう表情の一つ一つを見せてくれることが
すごく……嬉しかったりもするんだ

僕は感情を動かしているって
実感出来る――からかな?

だから今日も
僕は待つ

誰かが ノブに手を掛けて

カチャリと音を立てて
僕を開けてくれるのを




キズ〜 ケンオ 〜





運ばれてきた、朝食が乗せられたクリーム色のお盆が、目の前の簡易のテーブルに乗せられて。
看護婦さんが笑顔を振り撒いたあと。
にこやかに出ていった音が、病室内に響いた。
バタンと、やけに大きく。
そのあと、外の音をずっと聞いていた。
美味しそうとはお世辞にも言えない、病院独特の朝食をじっと見て。
もう朝食を終えたのか、子供のはしゃぐ声とか。
部屋の外を行き来する人の足音とか。
廊下で反響してる、そんな音を。
窓を開けているから、もうすぐ、庭で遊ぶ子供たちの声も聞こえ始めるかもしれない。
そんなことを考えながら。
目の前の真っ白な皿を、わたしは指で弾いた。
食べる気がないから、取りに行かなかった。
それなのに、誰も察してはくれなかったのか。
もしくは、これも仕事のうちだから、なのか。
ご丁寧に、看護婦さんはこうしてわたしの目の前に持ってきてくれたわけで。
左腕が動かないだけで、元気なはずのわたしは。
もう一度皿を指で弾いて。
ベッドから降りた。

小さくも音を立てずに、食器を元のように所定の場所へと置いた。
中身はそのまま。
一切手を付けずにいたから――右腕だけで持つのは少し重かったけど、仕方がなかったし。
食べる気が起きなかったのだから、仕方がない。
そう決めて、わたしはポケットに入れておいた携帯を手にして、屋上へと歩き出した。


そこはいつもと同じ色をしていて。
浮かんでいる雲でさえ、いつもと同じ色。
青くて、真っ白だった。
何度も救われたその色に、わたしはまた、救われたいと願って、ここへ――きたのだけれど。
すべての出来事から救ってくれるっていうわけでもなさそうだった。
風が吹いて、髪が流される。
縛る気になれなくて、髪は垂らしたままだった。
真っ白なフェンスを横目で見ながら、水色のベンチへと腰掛ける。
フェンスというより、塀かもしれない。
なんて、その高さを見上げて思った。
白と白と、青。
それを瞳に焼き付けて、目を閉じる。
自然と上った笑みは、自嘲に近いものだったけど。
そのまま、深く息を吸い込んで。
結局は――自分の気持ち次第なんだと、ようやく気づいた。
彼のことばかり考えてはいられないこととか。
そんなことまで思い出す。
だって確か、締め切りが迫っているはず。
わたしの都合だけで、休止、なんて……そんなことにはしたくなかった。
わたしの紡ぐ言葉を待っている人がいてくれること。
それを考えれば、死ぬなんてこと、そんな簡単に考えちゃいけなかったんだって。
悲しみはここにある。
でも、蓋をすることは出来るはず。
いつかと、あの頃と、同じように。
嘘を吐くことには慣れているはずだよ?
寄り掛かれる相手が、ただいないだけ。
ただ、それだけじゃない?
ふっと笑って、瞼を上げる。
自分に嘘を吐く。
出来ないことじゃない。
自分だって、騙せる。
右手を伸ばして、青い空へと目を向けた。
ぐっと何かを掴んで。
胸元へと、それを引き寄せる。
笑っていよう、どんな時も。
やれていたはずのことを、もう一度思い出して。
気づく人もいるかもしれない。
それでも、平気だと、大丈夫だと…届けよう。
決めて、拳を開いた。
そこから、何かが飛んでいってしまったような。
そんな喪失感が、『僕』を包んでいた。







昨日、有沢さんが言っていた通り、午後一で診察があった。
朝食は食べなかったけれど、昼食は口にしたことを正直に述べた。
左腕は、まだ動かないことも。
理由はわからないらしくて、結局、刺された時のショックだろうと片づけられた。
その左腕を、刺されてから初めて、僕はまざまざと正視したんだけど。
結構な傷になってしまっていて。
消すことも出来ますよ、と、医者が言っていた。
まぁ、そうすると退院は遅れるらしいから、考えさせてくださいとお願いして、僕は席を立った。
軽く頭を下げて、診察室を出る。
そこで、廊下で子供たちと擦れ違った。
手を振れば、振り返されて。
元気だなぁ、なんて、しみじみ思っちゃったりした。
右腕のみを上方に伸ばして、少しだけ背伸びをして。
ふっと力を抜いたあとで歩を進める。
どこへ行こうかとその次に考えて。
とりあえず、歩き出してしまった方向とか。
今持っているものとかを考えたら、病室に戻るのが一番いいように思えて。
僕はエレベーターを待っていた。
病室は三階から上で。
僕の部屋は四階にある。
今ここは二階だから。
ほんの少しだけ、楽をしようとしてるのかもしれないけれど。
何となく、隔離された場所へと行きたかった。
扉が開いて、乗り込む。
真っ白な箱の中。
病室よりもかなり狭いそれは、上へ上へと上がっていって。
わずかな時間だったけれど、僕は爪先をじっと見つめていた。
止まる直前の小さな揺れに、心を入れ替えはしたけれど。
扉が開いた瞬間、踏み出そうとした足は、止まった。
「あ…れ?」
「あ、玲ちゃん……。どこ行ってたの?」
「うん、診察。戻ってたんだ? 日本に」
久しぶりに見る照れたようなその顔に、僕は笑みを浮かべた。
一歩踏み出して、箱から出る。
「和馬も一緒?」
「うん。実は、ケガしちゃったの、和馬くん」
「で、日本で治療に専念ってわけですか?」
「そうです」
くすくす笑って、タマちゃんと二人で歩く。
「なっちんから聞いたの?」
聞けば、コクンと彼女は頷いた。
「一昨日、帰るからって連絡入れたの。今日の朝早くに着いたんだけど」
「和馬、ここの病院?」
「うん。入院は必要なかったんだけど、自宅でおとなしくしてるような感じじゃないでしょ? だから強制的に、押し込んじゃった」
控えめに舌を出して笑った彼女に、僕は少し驚いて。
アメリカに住んでいるからなのか、はたまた和馬と同棲しているからなのか。
押しが強くなってしまったタマちゃんに、少しだけ悲しく思ったりもした。
けど、年月ってそんなモノ。
時が経てば、必ず成長する生き物だしね、人間って。
だから僕は、改めて笑顔を向け直した。
「荷物は? 今から取りに行くの?」
「ううん。日本に着いて、ここに直行しちゃったから。和馬くん、家に行く時は一緒じゃないと嫌、みたいなところがあって」
「守りたいんじゃないかな? タマちゃんのこと」
「誰から?」
「家族。タマちゃん、周りから言われると、結構ヘコんじゃうところありそうだし」
「それは……」
「自分の短所、しっかりわかってるのもいいと思うよ? でも、人間の短所って、裏を返せば長所になるんだよ。言い方次第なの。まぁ、人間だけに限らないけどね」
自分のネームプレートが張られた扉を開ける。
和馬のことを聞いたら、病院に着いたと同時ぐらいに、前もって連絡しておいた高校からの友達とか、部活の時の先輩とか後輩とか。
とにかく、そういった知り合いに囲まれて。
病室はそんな人たちで溢れているらしくて。
タマちゃんは追い出されちゃった、なんて言ってた。
その時に、僕のところにでも行ってこいって言われたんだって。
聞きながら、軽く相づちを打って、ベッドへと腰掛ける。
タマちゃんには、そばの椅子を勧めて。
「タマちゃんを病室に残さなかったのも、和馬の優しさだよね」
「そう…思う?」
「思う。だって、二人だけでアメリカ行って、もう三年だよ? 冷やかされるに決まってるじゃん。その的がタマちゃんに行かないようにっていう配慮なんだと思う。ぶっきらぼうだけど、和馬って結構優しいヤツだと思うよ? ――って、恋人であるタマちゃんに言ってもしょうがないかもしれないけど」
言えば、タマちゃんはふるふると首を振って。
少し、俯いてしまった。
どうしたんだろう、なんて思いながらも、僕は言葉を紡いでいく。
「タマちゃんは自分で、手際が悪いだとか、のんびりしすぎるだとか言うけど、言い方を変えれば、丁寧なんだって思うよ。一つ一つに一生懸命取り組んじゃうから、視野が狭くなっちゃう。周りが見られなくなるから、手際が悪いように思えちゃう。それって仕方のないことじゃない? 逆に、視野が広いと、全部のことをやらなきゃいけないっていう考えが働いちゃうから、一つ一つがおろそかになりかねない。適当よりも、丁寧な方がいい。のんびりっていうのだってそうじゃん? ゆっくりしたい時に、急かされるよりはよっぽどいい。ただでさえ、世の中急速に動いてるんだもん。そういうのに疲れちゃってる人間から見たら、タマちゃんみたいな人は、本当に羨ましく見えるよ」
現に僕がそうだもん。
届ければ、一呼吸置いたあとで、タマちゃんは「ありがとう」と綴ってくれた。
涙で掠れたような、そんな声で。
苦しかったりしたのかな?
少しだけ、そう考えた。
和馬の無謀とも言える挑戦に、高校卒業直前に和馬と付き合い始めたタマちゃんは。
半ば引きずられるように、アメリカまで付いていった。
一番近くで応援したいって言う、彼女の気持ちもわからないでもなかったから。
僕は、彼女が周りに流されてしまわないようにと、祈りながら、頑張れとしか、言えなかった。
流されてもいいんだよ? 別に。
いい方へ変わるのなら、それ以上のことはない。
でも、彼女の時間は、わりとゆっくり流れているのだと知っていたから、心配だった。
自分はこうなのだ、みたいに、人に言えるのってすごいことだと思う。
「あのさぁ、聞いていい?」
指で涙を拭って、顔を上げたタマちゃんに、口を開く。
案の定、タマちゃんは「なぁに?」と言ってくれた。
「和馬と結婚しないの?」
「…え?」
「結婚しないの? 和馬と」
「え? あの……」
「もう一回言おうか?」
「う、ううん! 大丈夫、だけど……」
言葉をゆっくり飲み込んで。
彼女の顔は、急にっていう言葉が似合うぐらい急に、真っ赤になって。
「やっぱりタマちゃんってカワイー」
くすくす笑って、僕はそう紡ぐ。
「か、からかわないでよ、玲ちゃん」
「からかったわけじゃないよ? 本気で疑問に思っただけ」
「玲ちゃん…」
「それで?」
促せば、彼女は視線を伏せて。
「和馬くんからそういうこと、何も言わないし……」
「だから?」
「だからって…」
「待ってるだけじゃダメだよ? タマちゃん自身はどうしたいの?」
「わたしは……」
――答えはなかった。
まぁ、考えているんだろうから、そっとしておいたけど。
そんな彼女を見ながら、僕は薄く、微笑んでいた。







次の日も、僕は屋上にいて。
ただ、ひとりじゃなかった。
「病院内じゃ、パジャマって普段着かもしれんなぁ」
そうついさっき、声を掛けられた。
昨日と同じベンチ。
隣に腰掛けてきた、その長身の男性に、くすくす笑った。
「病室棟だけでしょ? 外来の診察室方面行ったら、ニィやんと同じような格好してる人の方が多いって」
見上げてそう言う。
「なっちん?」
「玲ちゃんの病室におるで。捜しに来たんや」
「そっか」
青空を見上げて、息を吐く。
ひとりにしてくれないんだなー、なんて。
身勝手なことを考えた。
みんな、僕のためによかれとやってくれていることなのに。
「聞いた?」
「何を?」
「和馬、今入院してる」
「ああ、知っとる。奈津実が珠美ちゃんから電話が来た、言うて。さっき覗いてきた」
「今日もいっぱい?」
「朝早かったからなぁ、オレだけやった」
「そっか」
「ただ、今はいっぱいかもしれん」
「そっか」
同じ言葉で頷いて。
じゃあ、タマちゃん、今日も僕のとこに避難させられてるかもなぁ、なんて思いながら、背もたれに身体を預けた。
空は真っ青で、もうすぐ梅雨に入る、なんて思えなかった。
「そう言えば、もうすぐ誕生日?」
「せやなぁ。珠美ちゃんもやろ? 確か」
「もう過ぎちゃったよ。プレゼントは送っちゃいました。でも、戻ってくるなら送らなくてもよかったかもね」
ありがとうって、昨日、お礼言ってもらっちゃった。
きちんと届いていたなら、よかったって思う。
「さよか。玲ちゃんは欲しいもん、あるんか?」
聞かれて、頷いた。
けどすぐに、
「でも、諦めた」
そう、綴った。
「昨日、ここで諦めた。離しちゃった」
ふふっと笑う。
視線を落として、開いた右手のひらを見た。
何もない。
決めたんだし。
今、うまく笑えてるよね?
「和馬が言うとった。珠美ちゃんに妙なこと吹き込まなかったかって。困ってる、言うてたけど、顔は嬉しそうやったな」
「妙なことかな? 結婚しないの? って聞いただけなんだけど」
「………」
「ニィやんたちは? まだもうちょっと先?」
何か物言いたげな彼を無視するようにそう聞く。
でもニィやんは黙ったままで。
マズイなーなんて思う。
言えるその瞬間を与えたら、絶対持ち出されてしまう。
「なっちんと付き合ってるんでしょ? だからさ」
「あんなぁ。付き合うてるからって、そんなにすぐに結婚するわけやないで?」
「それはわかるけど。でもさぁ」
「相手のこと、きちんとわからんと、そういう結論には行きつかへんやろ」
「友達の時間が長かったんだから、その辺は平気だと思うけど?」
「んじゃ、玲ちゃんたちは何でやったん?」
「…っ」
言葉に詰まった。
何も言えない。
言えるけど、言いたくない。
だって、嘘じゃなかったから。
全部……本当のことだったはずだから。
「あいつは?」
「仕事…のはずだよ」
「さよか」
「うん」
それ以上、言葉は続かなかった。
続けられなかった。
何をどう話せばいいのか、わからなかったから。
ただ、「泣きたい時は、ちゃんと泣いとき」っていう言葉に、わずかに頷いたような、そんな感覚だけは、残っていた。

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