いくら焦がれていても
そばには行けない

どんなに想っていたって
叶わない

一向に距離は縮まらない

同じ距離を保ったまま

手を伸ばすことも 距離を縮めることも
叶わぬまま

私はあなたを見つめて

この闇の海を

ぐるぐる――回るだけ

あなたの纏う炎を

ただただ 見つめて




キズ 〜 キョダク 〜





重い瞼を上げた時。
一番に飛び込んできたのは、白だった。
隔離されたような、白い箱の中で。
外からは、嬉しそうな女の人の声がいくつか聞こえた。
白と、独特の臭いに、ここがどこかを知って。
部屋の外にいるのは、看護婦さんかな、なんて思ったりもした。
でもすぐに、泣きたくなってきて。
あそこでわたしの名前を呼んだのはなぜ?
とか。
あなたが呼ばなきゃいけなかったのは、彼女の名前だったはずでしょう?
とか。
そんなことをずっと、考えて。
開けられていた窓から入り込んできた風に、閉められていた真っ白なカーテンが大きく煽られて。
不意に飛び込んできた太陽の光が、なぜか……目に痛く思えて、仕方がなくて。
わたしは瞼を閉じた。
それだけじゃ足りなくて、右腕で目元を押さえる。
わたしは誰の名前を呼べばいい?
どうすればいいの?
流れた涙を拭わずにいると、ドアが開けられた音が響いた。
けれど、まだ眠気が身体の中に残っていたわたしは、それをどこか遠くで聞くことしか、出来なかった。




…煩いって、そう思った。
思ったら、目が覚めていることにも気づいてしまって。
自分で瞼に押し当てた腕の重さにも、嫌気が差してきていたから、わたしは動くことに決めた。
右腕を動かして、シーツの上に落ち着けて。
それから、ゆっくりと瞼を開いた。
目が覚めたわたしに気づいたのか、声はすぐに止む。
「玲? 大丈夫?」
真っ白な光に目が慣れていなくて。
一度瞼を閉じたあと、声を掛けてくれた彼女の名前を、わたしは綴った。
「大丈夫だよ、なっちん」
笑って言えば、安堵の息が漏れて。
ごめんね、って、ちょっと思ってた。
「有沢さんも……お店、平気?」
「大丈夫。何か食べたいものとかない? それとも……聞きたいこととか」
目を見開けば、有沢さんは笑ってくれて。
なっちんはわずかに首を傾げてた。
「………」
「田端さん?」
「食べたいものは…別に」
「そう」
「……」
「聞きたいことは?」
「…紗枝、さんは?」
紡いだ言葉に、なっちんは驚いていたようで。
何でアンタは自分よりも他人なのよ!
なんて言われてしまった。
そのあと、大きく息を吐いて。
「あの子はとりあえず、帰っていったよ。警察沙汰にはしないみたい」
と、教えてくれた。
「そう」
「そうって…、訴えなよ! アンタにはその資格があるんだから!」
「しないよ。紗枝さん、綺麗だし」
「あのネェ……」
「それに……」
「葉月くん、でしょう?」
言葉に、有沢さんを見る。
それでようやく、彼女が花瓶に花を生けていたのだと知った。
真っ赤な花が、目に――痛い。
「嬉しい?」
聞かれて、こくんと頷いた。
紗枝さんに何もないのなら、彼が悩むことも、きっと……ないはずだから。
そこまで考えて、わたしは瞼を閉じた。
「奈津実から話は聞いたわ。疑問があるなら、口に出して」
「………」
無言で有沢さんを見る。
本当に似てるなって思う。
多分、有沢さんが一度でも麻衣と会っていたら。
麻衣は必ず、なっちんじゃなくて、有沢さんにわたしのことを頼んだだろうと思う。
多分――だけど。
もう、『もしも』の世界のことでしかないけれど。
「彼が…わたしの名前を呼んだの」
「それが何だってのよ? 当たり前のことじゃん」
「奈津実」
「何よ?」
「黙ってて」
頬を膨らませたなっちんに、わたしはふっと笑う。
同じように微笑っていた有沢さんが、それでもすぐにわたしを見て。
黄緑色のその瞳が続きを促していた。
「――名前を呼ばれた時に、まだなんだって思ったの。音とか、全然聞こえなかったのに。あの声だけは、はっきりと聞こえたの」
「死ぬつもりだった?」
問いかけに驚いたのは、わたしよりもなっちんで。
口を開き掛けたなっちんを気配だけで感じながら、わたしは短く息を吐いた。
こういう時――微笑ってしまうのは、どうしてなんだろう?
「逃げたかったんだと思う。生きてるのって、辛いから」
「玲っ」
「奈津実、黙ってて」
「……」
「辛くない? 苦しんだり、泣いたり。笑う時もあるけど、心の底から笑ったことなんか、数える程度だし。輪廻転生ってものがあるなら、結局逃げたとしても、生まれ変わっちゃうから、同じことの繰り返しかもしれない。それでも、今だけでも、この状態から逃げ出したかったの。――許されなかったけどね」
「………」
「あそこで、彼が発するべきだったのは、紗枝さんの名前だったんだよ。わたしに避けるように言うんじゃなくて、紗枝さんの行動を止めさせるために。だってそうでしょう? 紗枝さんは恋人なんだよ? その恋人の手を汚させない方が大事なんじゃないの?」
泣きたくて、しょうがなくて。
わたしは瞼を手の甲で押さえようとしたんだけど。
左腕がどうしても動かなくて。
右の手で、両瞼を押さえることにした。
そのわたしの様子に気づいたんだろう。
有沢さんが、口を開いた。
「左腕は刺された時のショックで動かないんだろうって医者が言ってたわ」
「………」
「生活に支障がないなら、今週末にでも退院していいって。とりあえず、明日には簡単に検査するって」
「…わかった」
「それから、さっきの疑問だけど」
あなたの中で、もうすでに答えは出てるんじゃないの?
言われて、何も言えなくて。
ただ、暗い闇を見つめていた。
答えなんて、出てる。
わかってる。
でも、わかりたくなんて、なかったから。
「葉月くん、来てたのよ。奈津実が来たら帰っていったけど」
「来てたの? アイツ」
声を上げたのは、わたしじゃなくて、またなっちんで。
わたしは、手を外して、上半身を少し上げた。
「何で? 紗枝さんのところには……?」
「これから行くって言ってたわ」
「………」
「素直になったら? まだチャンスはあるんだし」
「っ、でも……」
なっちんが背中を支えてくれて。
そうしながら、わたしはきちんと上半身を起こした。
素直になるってどうやればいいの?
急に言われても、わからない。
「私は明日来られないから。奈津実もでしょ?」
促されるままに、なっちんは首を縦に振って。
有沢さんの瞳は、わたしに向けられた。
真っ直ぐ見られなくて、わたしは視線を下へと向ける。
軽く組んだ手を見つめれば、やっぱり違和感。
「ひとりでゆっくり考えなさい」
言われて、頷くこともできなくて。
立ち上がった有沢さんを、見ることも出来なかった。


二人が帰っていってしまったその白い箱の中で、ただ天井を見つめていた。
わたしはわたしのものだって、ずっと思ってた。
考えていたのは、そんなこと。
逃げることしか考えていなかったはずなのに、彼が許してはくれなかったという、ただそれだけで。
身体は反応を返してしまった。
わたしはわたしのものであるはずなのに。
彼の言葉には、多大な影響を受けてしまっていて。
半分以上、わたしは彼のものになってしまっているのかもしれなかった。
彼がわたしの名前を呼んだから。
わたしは、死ぬことをやめた。
わたしはまだ、彼にとっては、この世界にいなくてはいけない存在だったってことで――。
何かもう、ぐちゃぐちゃだった。
左腕は動かないし。
考えることは、暗いことばっかりだし。
布団を頭から被って、目を閉じる。
箱の外での物音がすべて、別の世界のもののように思えた。

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