気づいてる

気づいてるよ 本当は

でも
気づきたくないだけ




綺麗な心の手に入れ方 〜 寸前 〜





彼が好きだと言った、『扉』という短編は、わたしも結構気に入っていた。

木製の…古いその扉。
開けられることは、もうなくて。
それでも……その扉は、そこにある。
誰かが、いつか…開けてくれることを信じて。
でも、それが揺らぐことも、時々あって。
扉は、人間を信じることをやめようとする。
もう、きっと、誰も来ないから。
そう思う。
そして…朽ち果てようとする。
そちらの道へと、歩きはじめようとする。
待つことを、諦めようとする。
けれど、扉はすぐに考え直した。
もし、朽ち果てたその時に、誰かが自分を開けにやってきたらどうしよう?
そう考えて。
来ないかもしれないけれど、来るかもしれない。
そう…考えて。
扉は生きる。
生きようとする、その道を選ぶ。
朽ち果てようとする家を叱咤して。
誰かがまた、自分を開けてくれることを信じて。

それが、『扉』という短編の内容。
信じることをやめてはいけない。
そう思いながら、書いたもの。
それなのに、わたしはもう、とうに。
信じることを、してはいない。



蛇口から水が吐き出される。
洗い物はもうすぐ終わる。
彼に断りも入れずに、テレビを消してから。
機械的に、わたしは洗い続けていた。
彼は何も言わない。
だからわたしも、何も言わない。
蛇口を捻って、水を止める。
マズイ、何もすることがなくなった。
そこでわたしの思考は、活動を始める。
だからといって、この空気を完璧に払拭できるとは思えない。
そんなことを考えていると、姫が足元で声を上げた。
「…何?」
「にゃー」
身を屈めて、首を傾げる。
するともう一度、声は上がった。
「はいはい」
抱き上げて、シンクにわずかに腰掛ける。
「機嫌、直してくださいますか?」
「にゃーぉ」
「……ダメ?」
「にゃ」
「………」
ため息を吐いて、姫を見て。
笑みを零して……抱き締める。
姫がこの家に来てから、二年半。
こんなに不安にさせたことはなかったから。
「ごめんね、姫」
優しく、優しく、背を撫でる。
姫の暖かさに、ほっとする。
いつだって、そばにいてくれたのにね。
わたしはきっと、姫に愛想を尽かされても仕方ない。
「ごめんね」
もう一度、言えば。
彼女はわたしの腕の中で丸くなった。
それに、本当に安堵する。
「ありがとう」
頬を擦り寄せて。
姫と遊ぶ。
と、わたしの周りが陰って見えた。
「?」
不思議に思いつつ、顔を上げる。
途端――唇にそれは触れた。

油断してた。
姫のことに、心を傾け過ぎていた。
どんな状況だったかなんて、わかり切っていたことだったのに。
腕の中。
姫が暴れている。
威嚇してるのが、わずかに耳に入る。
でも…わたしはもう、それどころじゃなかった。
力が抜ける。
姫を落としそうになって、わたしは少し、力を戻した。
なけなしの、それを。
気づいたのか、姫が自分から降りていった。
でも、そのおかげで、わたしの神経は、全部唇に行ってしまう。
「玲」
呼ばれて、わたしは思い出す。
前に、彼はわたしのことをそう呼んでいた。
高校三年のある時から、高校卒業まで、そう呼び続けていた。
だけど、わたしは彼のことを名字で呼び続けた。
「玲」
もう一度呼ばれて、わたしは後ろ手にシンクの縁を掴む。
片手は、彼の腕を掴んだ。
角度を変えて、彼は何度も、わたしの唇を啄ばむ。
その度に、彼はわたしを呼び続けた。
両の頬に、彼の冷たい手がある。
久しぶりの感覚に、わたしの脳は痺れていく。
そう、前もあった。
キスしたこと。
高校三年の…課外授業。
プラネタリウムって聞いた瞬間、わたしは真っ先に行くことを決めていた。
大好きだったから。
綺麗なものを見るのは、本当に好きだったから。
そしてそれに…彼も参加していた。
プラネタリウムに入って。
担任の氷室先生にしては、自由だった方だと思う。
席は勝手にしていいって言われて、わたしは一番後ろの席に陣取った。
腰掛けて、椅子をほんの少しだけ倒して。
そのあとで…周りを見渡したら、他のみんなは中心の方にいて。
あー、説明か。
って思ったけど、聞かなくてもいいやって諦めた。
そしたら、彼が隣りに来て、座って。
少し…わたしは笑ってた。
一番後ろは、彼と何度か一緒に来た時に「よく見える」って言われた場所で。
わたしは信じられなくて、聞き返したら、彼は「たぶん」って付け加えたような場所で。
でも、わたしはこの場所を好きになった。
端から端まで、一番後ろだから、実はよく見えた。
だからわたしは…その席に好んで座るようになった。
そんな場所で。
そして…辺りは暗くなる。
最初に名前を呼ばれたのも、その時だった。
驚いて、彼の方を見たら、唇が重なって。
その時も、こんな感じだった。
思考が持っていかれて、感覚が痺れて。
でも、唇の感触だけは、やけにリアルで。
はっきりしてて。
気づいていた――はずだったのに。
名字で呼ばれてたから、本当に油断してた。
彼がまだ、わたしを想っていてくれていること。
何となくでも、気づいていたのに。
「玲……?」
解放されて、わたしは力なく、彼の胸を押し返す。
そして、その場で蹲った。
涙が止まらなかった。
嬉しいはずなのに…痛い。
どうすればいいのかが、わからない。
姫が膝に手を掛けて、顔を覗き込んでくる。
姫の声が耳に入る。
「玲?」
声が降ってくる。
変わらない、優しい声で、彼はわたしを呼ぶ。
わたしは首を振ることしか出来ない。
声もなく、泣き続けることしか出来ない。
そんな部屋に、扉が開く音が響いた。

小さなため息。
そのあと、いくつか足音が響く。
それはすぐそばで止まった。
「玲、葉月さん泊めるよ?」
「………」
「外、吹雪いてきたから。私の車で送っていってもいいけど、事故る可能性のが高いからね」
言葉に、何とか頷きを返す。
そして、わたしの頭を、麻衣は軽く撫でた。
「顔、洗っといで。ついでにお風呂」
言われて、立ち上がる。
何も見ずに、真っ直ぐに洗面所へと移動する。
扉をパタン、と閉める直前。
麻衣と彼の声が聞こえた。
「玲から、聞いて知ってたんですけどね、あなたのこと」
「………」
「悩んでたんですよ、あの子。どうしたらいいのかわからないって」
「……俺のこと?」
「ええ。あなたのこと」
「……それは…」
「玲と会ったのは、中二の時です。その頃から、玲はああでした。自分の心を吐き出すようなことは一切なくて。周りを一番に考えて」
「……?」
「あいつはね、理由を聞かれると、自分のためって言うんです。自分のことしか考えてないって。この前、葉月さんがここに来たでしょう? その時だってそう言ってましたよ。見られるのって、結構疲れるから。彼のそばにいたら、自分は見られるから。疲れるから。だから、ここに連れてきたって」
「…あいつは……」
「いつだったか、藤井さん…でしたっけ? なっちんってあいつは呼んでたけど。その人がここに来た時のことなんですけどね。他愛無い話をして、二時間ぐらい…いましたけど。彼女が帰った直後、あいつ、玄関で大きく息を吐いてたんです。安堵するような、そんな息。それで気づいたんですよ。ああ、今日は玲は一人で過ごしたかったんだなって。でも、彼女のことを考えたら、それは言えないから、相手してたんだなって。今日来るって前々から連絡あったし、って言ってましたし。聞いたら、約束破りって思われたくないからって返事でした」
「………」
「あいつはイイコ過ぎるんです。中学の時だって、先生方の評判はよかったですよ。勉強熱心ってわけじゃないのに、優等生って見られてた。それを友達に言われると、あいつは『劣等生なのにね』って笑ってた」
「……」
「どう見ても、『田端 玲』っていう人間を演じているようにしか見えなかった。どこでも、どんな時でも。一人でいる時でさえ、緊張して。誰がいつ、どんな風に来ても…対応出来るように。だからあいつのそばにいてやろうって思ったんです。だって、家族の前でもああなんですから」
「!」
「本当のことです。気づいたの、私だけです」
麻衣がため息を吐いたのが聞こえた。
わたしはただ、それを聞く。
「誰かと一緒にいるのが怖いって。でも、ひとりは寂しいから嫌だって。それを聞いたから、私はそばにいてやりたかった。心の中にあるもの、全部吐き出させてやりたくて。でも……あいつは、私の前でも、演じるようになった。それが――こっちに引っ越すっていうのを、家族から聞いた翌日のことです」
円形のテーブルに備えてある椅子を引いたんだろう。
その音が響いてくる。
「理由聞いたら、本人無意識で。でも、考えてくれました、理由。そしたら…多分、別れるからだって」
「別れる?」
「ええ。出会ったとしても、いつかは別れるから。なら、最初から信じない方がいい。心を預けない方がいいって。それ聞いたら、玲はまだ、私に心を開いてくれてはいなかったんだって気づいたんです。だから私は、玲に連絡を取り続けた。私はそばにいよう。私だけは、玲の味方でいよう。玲のこと、裏切らずにいよう……って」
「……」
「――だったん…ですけどね。結婚、決まっちゃって」
「………」
「彼、ここから、結構離れたところに住んでて。結婚したら、私もそこに行かなきゃならない。となると、玲のそばにいられないんです。あの子が会いたいって言っても、すぐには会いに行けなくなる。だから、延ばしてもらったんです。彼にわがまま言って」
やっぱり。
わたしは小さくため息を吐いた。
麻衣には、いっぱい迷惑掛けたから。
麻衣には…麻衣にだけは、幸せになって欲しかった。
それを――誰でもない、わたしが妨げていたんだ。
そんな気はしてたんだけど。
わたしはまた、少し泣いた。
「そしたら、あの子。結構敏感で。そのことに気づいちゃったんですよ。多分、そうだと思うんです。麻衣は幸せになってね。わたしは一人でも平気だからって。そう…言ってましたから」
「おまえ…は?」
「気づきました? あの子、自分は幸せになっちゃいけないみたいな言い方もするんです。だから…悩んでたんだと思う」
「……」
「綺麗な人がいる。友達になった。でも、それ以上を望む自分がいる。彼も望んでくれている。でも自分は、彼とは違うから、そばにはいけない。隣りには並べない。どうしたらいい? って。最初は、何を言ってるんだって思いましたけど。あの子の心を理解すれば、すぐにわかるんです」
「………」
「葉月さんは強いですよ。一人で生きていけてるんですから」
「……」
「誰かを必要とはしないでしょう? 玲以外に」
「……ああ」
「でも、あの子は違う。全く逆なんです。一人を怖がる。誰かが支えていてくれないと、壊れちゃう」
「………」
「その誰かは、誰でもよくて。自分に優しくしてくれる人間の手を、あの子は離そうとはしないんです。離れてほしくないから、その人が望む『玲』を演じはじめるんです。あの子、芝居は得意だから、みんなうまく騙されていく。でも、あなたは違った。真っ直ぐにあの子を見てた。だから…玲は悩んでた。本当の自分を見せるべきかどうかを悩んでた。で…あの子は答えを出した。あなたには見せない。見せられない」
「どうして?」
「あなたが綺麗だから。綺麗すぎるから」
「………」
「玲に聞いて、そんな人、いるはずないって思ってたんですけど…会って、確信持ちました。あなたは、あの子とも、私とも違う。あの子が羨むぐらい、綺麗な心を持っていた」
「……心?」
「私は別に、羨ましいとは思いません。私にしてみれば、あの子の方が強い。あなたは、外も中も一人。だけどあの子は、周りにたくさんの人がいても、結局、あの子の心は一人きりなんです。誰も、あの子の本当の心が、何を感じているのかなんて…考えてあげてませんからね。それでも、あの子は弱音を吐かずにここにいる。それが崩れそうなのを、知っていながら」
「………」
会話が終わる。
姫が麻衣を呼んでる。
わたしはどうしたらいい?
わたしは……。
とりあえず、扉をゆっくりと、静かに閉めた。

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