| 胸が痛みを発する 知ってる
わかってる
大丈夫
平気だよ
偽るのは 慣れている
ずっと……そうやって来たんだから
綺麗な心の手に入れ方
〜 背戻 〜
鍵を差し込んで、回して。
そして、その鍵を持っていたバッグに仕舞い込む。
そこで彼は、わたしに追いついて。
斜め後ろに立っていた。
ドアノブに手を当てたところで、その声はかすかに耳に届く。
「あ、そうだ!」
思い出して、わたしは彼を振り向く。
言わなきゃいけないことがあったんだ。
「あのね、僕…ここに友達と住んでるの」
「ああ」
それがどうしたって顔。
それが普通の反応だろうから、わたしも何も言わない。
「でね、今日は…一人いるんだ、ウチの中に」
声が聞こえる。
かすかに、わたしを呼んでいる声。
彼には…届いていないらしい。
「心配しなくていい。ちゃんと、挨拶はする」
「そうして。多分、向こうも葉月くんのこと、気に入ると思う」
「……そうか」
「あ、いや…無理かも」
「? どっちなんだ?」
「うーん…まぁ、会ってみればわかるんじゃない?」
苦い笑いを浮かべながら、ドアへと向き直って。
そして、勢いよく…わたしはドアノブを引いた。
「ただいま、姫」
声を掛ければ、彼女は返事をしてくれる。
にゃー…と、変わらない声で。
その姿を抱き上げて、わたしは家の中へと入った。
「今日はね、友達連れてきたんだ。いいよね、姫」
答えるように、声が上がる。
ありがとうと零して、わたしは姫を床へと降ろした。
「……猫?」
彼がそんなことを呟く。
「当たり前でしょう? ほかに何に見えるわけ?
君には」
「……友達?」
「友達。というか、口説いたから…恋人か?」
「………」
「どうしても、猫飼いたくて。でも、気に入った子がいなくて、何度も何度も通ったのね、ペットショップ」
手を拱いて、彼を招き入れて。
鍵閉めてきてね。
そう言葉を添えて、先にキッチンへと入る。
買ってきた牛乳を冷蔵庫へと入れると、姫が彼の横にぴったりと付いて、一緒に入ってくるのが視界に入った。
「でね、ようやくこの子! っていう子に会ったの。それが、姫」
「で? それがどうして…口説いた、になるんだ?」
「だってさ、全然靡いてくれないんだもん。姫ってば」
冷蔵庫の戸を閉めて。
ビニール袋を畳んで仕舞う。
「毎日毎日会いに行ってるのに、僕のことを一度も見てくれないの。痺れ切らして、最後の手段!
って思って、姫に手を差し伸べて、言ったのよ」
胸に手を当てて、ほんのりと笑みを浮かべる。
演技は得意だ。
男役なんて、もっと得意だ!
「姫、あなたが外の世界を怖がるのは、よくわかります。ですから、どうか私に……あなたを守らせてください。――って」
「…………」
あれ? 絶句?
笑うとか…なんか反応返して欲しいんですが。
「どうかした?」
彼の目の前まで歩を進めて、普段の声でそう問いかける。
すると彼は、眉間に皺を作った。
「…びっくりした」
「そっか。それはよかった」
驚いてくれたなら、全然問題はない。
そばの円形の机の上。
軽々と飛び乗った姫の頭を撫でて、わたしは同意を求めてみる。
彼女はにゃあ、と鳴き声で答えてくれた。
「適当に座って。今、コーヒー入れるからさ」
コートを脱いで、背を向けて。
それからキッチンに立つ。
ほんの少し、肌寒い。
そう言えば、お客様用のカップ、なんて用意してない。
「僕のでいい?」
「何が?」
「コーヒーカップ」
振り向いて、右手に持ったカップを見せる。
猫柄の、全体的に青いそれを。
同居人の彼女のは、花柄だから…あからさまに嫌だろうと思うから。
リビングに置いているコタツの電源を彼は勝手に入れたらしい。
その中に足を突っ込んで座っていた。
別にいいんだけどね。
わたしだって、あとで入るし。
「………」
彼は無言。
確かに、可愛い感じのものだから、仕方ないのかも。
「返事がないなら、肯定と取るよー」
スプーンを取って、コーヒーを作りはじめようと、インスタントのその粉が入ったビンへと手を伸ばす。
と、彼の手がそれを遮った。
あそこからここまで、彼は急いできたのかもしれない。
それを思うと、わたしはちょっと笑ってしまった。
「ほかにないのか?」
「あと? あとはねぇ……」
食器棚へと移動して、中を覗き込む。
「大きいのしかありません」
「………」
開けて、出して見せて。
黄色いのと、白いのと。
ちなみに、黄色い方がわたしのだったりするんだけど。
彼は諦めて、わたしの手からスプーンを取り上げると、コーヒーカップに渋々それを入れた。
「これでいい」
金属と陶器がぶつかった、独特の音が響く。
それを背中で聞きながら、わたしは食器棚の扉を閉めた。
彼のため息が聞こえる。
わたしはくすくすと笑みを零す。
時間の流れ方が一緒だった。
昔と。
高校時代と。
「やっぱり、楽しい」
零して、コーヒーを入れはじめる。
「おまえ、変わってる」
「うん? うん、いいんじゃない?
みんなと一緒って言われるよりはいい」
「…変なヤツ」
「個性があるって言われてるんじゃないの?
違う?」
「取り方も同じだな、昔と」
「はいはい。そこで笑わないで」
高い位置にある頭をぺしっと叩いて、湯を入れる。
コポコポと心地よい音が耳に入ってくる。
コーヒーの匂いが立ち込める。
彼へと視線を向ければ。
彼はコタツの中に足を入れて。
顔を俯かせていた。
二つのカップを手にして、その左側へと歩き出す。
「姫?」
「ああ」
やっぱりそうか。
手に持っていたものを置いて。
腰を降ろして…足を入れる。
「やっぱり……勝手に入れたな?」
「入れた」
「まぁいいけど」
じんわりとした暖かさにほっとする。
彼を見れば、視線は相変わらず、姫を見たまま。
「…………」
どちらも無言。
その空気が何だかおもしろくて、わたしは自分のカップへと手を伸ばす。
「ここ置くよ?」
「ああ」
何か言えばいいのに。
思いながらも、わたしは何も言わない。
息を吹きかけて、恐る恐る口を付ける。
猫舌だから、仕方ないんだけど。
やっぱり熱くて、わたしは顔を顰めた。
姫はといえば、彼に少し気を許したらしい。
右前足を彼の膝に掛けていた。
もう一歩。
思っていると、意を決したらしい。
彼女はゆっくりと、彼の膝の上に乗る。
その姿をじっと、彼は見る。
眉根を寄せて。
睨むように、彼は姫を見る。
「にゃあ」
一声上げて、姫は腰を降ろした。
きちんと座る。
彼の顔を見上げて、まだ迷っている。
知っている顔だから…かもしれない。
それに、何のスキンシップもないから、っていうのも、あるかもしれない。
わたしだったら、そこで手を出してる。
頭を撫でて、喉に触れて。
でも…彼は何もしない。
ここまでだな。
思い、カップを下に置く。
「姫」
姫が振り返る。
彼の膝の上で。
彼も顔を上げる。
瞳にわたしが映る。
わたしの視線の先は、姫の顔。
小さな小さな、愛らしい…その顔。
「ちなみに、その人が葉月 珪くん」
「………にゃぉ」
「そ。僕が時々話してる人」
言えば、彼女はすぐに彼の膝から降りてしまう。
そして真っ直ぐに、わたしの膝の上へ。
「無理だったか」
「………」
何か言いた気な彼の視線。
それに曖昧な微笑を送って、わたしは姫の頭をちょっとだけ撫でた。
「姫って――結構嫉妬深くてね」
「……」
「僕が…君が載ってる雑誌、買って帰ってきた時に、気づいたんだけどね」
「……」
「それを見てたら、興味深そうに覗き込んできたからさ、教えてあげたのよ、君のこと」
「それで?」
「そしたら、次の瞬間。その雑誌はビリビリに」
「………」
「読めなくなっちゃったんで、ゴミ箱行き。仕方なく、それ以来――立ち読み」
何度か、姫に隠すようにして買ってきたこともあったんだけど。
あとで見たら、いつの間に見つけたのか、結局は破かれてて、同じだった。
「何、言ったんだ?」
「別に? 仲がよかった友達、だとか…高校時代は一緒に出掛けたなー、とか」
「それで?」
「それで」
彼がわからないって顔してる。
だから教えてあげようって思った。
姫がわたしのこと、どう思ってるのか。
「あのね、姫にとって、僕は飼い主じゃないよ?」
彼の手がカップに触れる。
わたしがいつも使っている、コーヒーカップ。
「口説いたって、さっき言ったでしょ?」
「…ああ」
「だからね、姫にとって、僕は『王子さま』なのさ」
皺が深くなる。
「いつも、『姫』って呼んでるのも原因の一つかもね。本当の名前はレイ…うららって書いて、レイなんだけど、そう呼ばないから、この家の人間。で、多分、君のことは…恋敵とか、そういう風に思ってるんじゃないのかな?」
手に、カップを通して暖かさが触れる。
冷たかった指先が、少しずつ癒されていく。
「恋敵……?」
「そう。仲がいいのは許せないって感じ?
一緒に住んでる友達でさえ、最初はすごかったし」
「そんなに?」
「言うことは聞かない、友達が用意したものは食べない、食事はしない」
「………」
「邪魔ばかりするし、睡眠でさえ、妨げる」
「本気で?」
「本気で。……てか、どっちのことを言ってる?」
「どっちも」
「…どっちも本気」
「…………」
「僕は姫の王子で、姫は僕を一人占めするために、いろいろやった」
「………」
「今は平和。友達が僕のことを姫から取り上げることはしないって気づいたんじゃない?」
カップを持ち上げて。
また、息を吹きかける。
「葉月くんだって大丈夫だよ。そのうち慣れてくれるって」
言ってから、口を付ける。
まだ少し…熱い。
しばしの沈黙。
閉め切った窓の向こうから、めったに通ることのない自動車が走っていった音が聞こえた。
「……拗ねてる?」
ふと、頭に過ぎったことを聞いてみる。
少し顔を俯かせていた彼は、わずかにわたしの言葉にそれを上げた。
「どうして?」
「猫、好きなんだよね?」
「…ああ」
「その猫に嫌われちゃったから」
「……べつに」
はぁ、と息を吐く。
「素直じゃないなぁ」
カップを置くと。
コトッと音が短く響く。
膝の上には、姫の重さ。
丸くなって眠っている、その重さ。
「大丈夫だって。葉月くんは優しいし」
「………」
「悪いヤツじゃ、ないんだしさ」
そう、彼は優しい。
わたしの何倍も…ずっとずっと、優しいのだから。
そんな時、わたしの携帯が音楽を奏でた。
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