| そう この頃は 彼女のことを考えながら
仕事をすることも
クロッキーを持つことも
なかったように……思う
去年はそんなこと
――なかったのに
Bridge 〜 刺撃 〜
川を横目で見ながら、下流へと歩を進める。
動いているはずで。
動けているはずで。
でも、もしかしたら、動けてはいないかもしれなくて。
前へとは、進んでいないかもしれなくて。
川の流れは、変わらず、早くて。
流れているものでさえ、いつもと同じ。
わけがわからなくて。
俺はただ、歩き続けてた。
あの子供は、どこに行ったのだろう?
考えて。
会いたかったけれど、今はまだ、無理だと。
そう、思って。
それでも、橋を渡って、向こう側に行って。
あの子供を、一度だけでも、抱き締めたくて。
ずっとそばにいられなくても。
あの子供を傷つけるのがオチなら。
彼女が俺に教えてくれたように。
願い続ければ、誰かはそばにいてくれると。
それを教えてやりたかった。
足音をわずかに立てながら、歩いていく。
それでも、その音は。
川の音に、かき消されていたけれど。
「…だれ?」
声が不意に響いて、俺は歩みを止めた。
川の向こう側に瞳を向けたけれど。
やっぱりそこは、暗闇ばかりで。
俺に声が向けられているのかも……わからない。
「だれか、いるんでしょう?」
川の音にも負けないように声を上げて。
そう、言葉を紡いでくる。
その声は、あの、子供のもので。
俺はゆっくりと、向こう側へと、身体を向ける。
「それとも……やっぱり、このこえはきこえないの?」
やっぱり?
泣きそうなその言葉に、俺は眉根を寄せた。
「そんなこと…ない」
届けて。
「! だれ?」
言われて。
問われて。
「…俺か?」
そう、声を発してみた。
身体を向けて、瞳を凝らして。
そんな風に発した俺の声は小さかったけれど。
子供は驚いたようだった。
「おにいちゃん、だれ?」
「やっぱり、おまえからも見えないか?」
「……あのね?」
「…? ああ」
「ぼんやりってかんじで、みえるの」
「………」
「だからきづけたの。おにいちゃんからは?」
「……全然…だな」
紡げば、その子供は、残念そうに「そっか…」と紡ぐ。
でも、俺の姿が見えるなら。
ぼんやりとでも、見えるなら。
会話は、成り立つかも、しれなくて。
「おにいちゃん、とげ、もってる?」
「……たぶん」
「……そっか」
「………」
「おにいちゃん、みえるから。もってないかもしれないって、おもったんだけど」
「?」
「あのね? いろんなひとにあったの。でもね?
みんな、みえないんだ。こえしかきこえないの。めのまえにいるのはわかるのに、かおとか…てとか。ぜんぜん、みえないの」
「そういう人は、持ってるのか?」
「うん。もってるの。なんにんかのひとといっしょにいたことあるから、わかる」
ギシッと、軋む音が響く。
タッという、短い音も、そのすぐあとに響いて。
「おまえ、ずっとここにいるのか?」
聞いてみたいというのもあって、俺はそう、口にする。
子供は、歩き出すこともせずに、そこにいて。
会話が成り立つようになってから、気づいたのだけれど。
川の向こう側にいる子供の声は。
この暗闇に一度響いてから、俺の耳に届いていて。
だから。
「うん…」
そう言った小さな声も、容易に聞き取れた。
「さいしょはね?
あったかいところにいたの。みんなやさしくて」
「そうか」
「…でもね? 『いいこでいなさい』っていわれて。そのとおりにしはじめたころから、すこしずつだけど、みんなのすがたがみえなくなったの」
「………」
「ほんとうにすこししかみえなくなったときにね?
いたいなーって、そう、おもったの。そしたらね?
てのひらに、きずができてたの」
「………」
「て、つないでたからだっておもったから。てをつながなくなったの。そうしたら、すこしずつ…ひとがいなくなっていって」
「…ああ」
「きがついたら……まっくらで。ひとりになってた」
呟くように言って。
また小さく、軋む音。
もしかしたら――川に沿うようにして、ロープが張ってあるのかもしれなくて。
こっちにはないのに。
あっちには、あるのかも、しれなくて。
「ひとりで、いたくないんだよな?」
「うん…」
「でも、誰かと一緒でも、嫌なんだよな?
傷つくから」
「うん……」
「………」
「ふれられたとこに、きずができるの。いたくて、どうしようもないから。わたしから……はなれたの」
「………」
「それから、すこしして。ずーっとひとりでいて。そのときに、きづいたんだけどね?
きず、なおってないみたいで」
「!」
「いたいんだけど、わたし、なけなかったの」
自分の姿も見えないんだと、そう、綴って。
傷口から流れているものは、血なのかどうかすらわからないと、そう言った。
だとすれば。
弱っているのだと、するなら。
ロープに頼って立ち上がっているのも、頷けて。
早くそばに行って、見てやりたいと。
俺が治せるかどうかすら、わからないけれど。
会いたい気持ちは、募っていく。
「なぁ」
「? なぁに?」
「この川…、橋、ないのか?」
「はし?」
「橋を渡れば、俺、おまえに会えるだろ?
俺の手にも、刺、あるかもしれないけど」
「………」
「傷を見てやるぐらいは、できるだろうから」
「………」
「だから橋、渡ろう?」
「………」
発すれば、向こう側からは。
もう一度、ギシッと軋む音がして。
足音がわずかに立った。
歩き出したのだと認識して。
俺もゆっくりと、歩きはじめる。
ひとりでいるのは嫌だろうから。
本当は、そこから動くな、と言いたいのだけれど。
それは、嫌だろうから。
川を挟んで、会話しながら、歩いていく。
時折する、軋む音に。
俺の不安は、付き纏っていたけれど。
続く会話に、わずかだけれど、安堵していた。
不安はあった。
それでも、会えたそのことは、嬉しかった。
「わかるかどうか心配だったんですよ、これでも」
「俺も」
「大丈夫です! 一発で見分けられる自信、私はありますから!」
胸を反らして、彼女は言う。
それにくすくすと笑みを零しながら、街中を歩きはじめた。
完璧に…とまではいかなくても、変装をして。
俺達は約束通り、二人で会っている。
俗に言う、デート。
今の時季は、桜が満開で。
花見に行こうということになったのは、当然かもしれない。
「夜桜って、私、実は初めてなんです」
「そうか」
「葉月さんは?」
「俺は…何度か見に行ったな」
「そうですか…」
小さくなった声と。
俯いてしまった顔に。
彼女の不安が、何となくわかって。
俺はふわりと、その手を取った。
彼女よりも…少しばかり、細い。
その手。
驚いて見開かれた瞳は、真っ直ぐに俺を見ていて。
「でも、今年は初、だから」
言えば、紗枝はまた笑う。
それにつられるようにして、俺も微笑を零した。
去年は――彼女と訪れた、その場所。
おどけた様子で彼女が手作りの弁当の蓋を開けてくれて。
彼女は嬉しそうに、笑っていた。
森林公園の、桜並木は。
夜ともなれば、たくさんの人が宴会を開いていたけれど。
「いっぱい…ですね……」
「こっち」
「え?」
引っ張って、並木を抜ける。
そして、辿り着いたその場所に、紗枝は満面の笑みを浮かべてくれた。
上半身を起こしてから、夢の内容を思い出す。
何度も見ているはずのその夢は。
見る度に、先へと進んでいて。
「橋を渡れば……か」
自分が夢の中で言ったことを反芻して。
ゆっくりと、ベッドから抜け出た。
彼女がそばにいなくなってから一ヶ月。
一人の朝には、まだ慣れないけれど。
時々、ふとした時に、彼女の名を口にしたり、呼びそうになるけれど。
それでも少しずつ。
その悲しみから抜け出せているのだと、そう思いたかった。
でなければ、紗枝に悪い、という気持ちがあったから。
それに、笑みを浮かべていなければ、彼女にも悪いと思ったから。
俺は毎日、彼女の姿を思い出しては、外に出さないようにと、気をつけていた。
着替えてから、部屋を出る。
階段を降りて、キッチンへと歩いて。
その時にふっと。
疑問が浮かんだ。
夢のあの空間は、暗闇だけで。
川がどこへ流れているのかも、わからない。
それどころか、ほかのものも、当たり前のように、見えなくて。
………。
橋なんて、本当にあるのだろうか、と。
そう。
湧き起こった疑問に。
俺は足を止めていた。
「キレイですねー」
手に届く位置にある枝に少しだけ触れて。
それから、その枝がつけている花に、指先で触れて。
紗枝は常に、笑い続けている。
ここは、彼女が見つけた場所で。
去年、四人でここへ来た。
出遅れた俺たちは、当たり前のように、場所を取ることはできなくて。
どうしようかと思案している時に、彼女が指を差した方向に、ここはあった。
「あっち! 何か空がピンク色!」
そう言って、荷物を持って、走り出して。
すぐに追いかけたのは、月宮だった。
光太さんと顔を見合わせて。
それからゆっくりと向かえば。
この場所があったわけで。
見つけにくい場所かもしれないけれど。
それでも、それなりの広さはあって。
月宮が用意している最中、彼女はただじっと、この樹を見上げていた。
さして大きくもない。
そんな樹を。
その彼女に声をかけたのは光太さんで。
「何かある?」
そんな風に。
わけがわからずに首を傾げると、彼女は短く返答。
「大丈夫…かな? 周りには誰もいないけど、悪い感じはしないし」
視線を目の前の幹へと変えて。
彼女はその幹に触れていた。
「ヤバイってことは、なさそう」
そう言って、手伝いのために、踵を返して。
――あとで聞いたら。
「ほんの少しだけだけど、霊感みたいなもの、あるんだよね」
そう言ってた。
それにすぐ。
「玲のは動物の勘みたいなやつ」
なんて言われてたっけ。
「猫ってその手の話には何度も出てくるし」
「………」
「もしかしたら案外、玲ちゃんはそっち系なのかもねー?」
言われて。
からかわれてるってわかってるのに。
彼女は噛み付いていた。
まぁ、最後には、笑ってたけど。
思い出して、小さく笑みを零す。
と、すぐに視線が向けられて。
小さく傾げられた首に、「何でもない」と届けた。
それから、桜へと視線を移す。
ポツリと灯されている明かりに照らされた桜は。
昼間とは違う面を見せていて。
確かに綺麗だった。
「暗闇に浮かび上がるみたいでね? 夜の桜も綺麗なんだ」
綴って、連れ出されて。
その時に、見上げた桜は、綺麗だった。
何度か見かけることはあったけれど、きちんと見たのは初めてで。
何となくだけれど。
桜の木の下には……っていう、あの話は、事実なんじゃないかって思えた。
「今日、お花見なんで、お弁当作ってきたんですよ」
ポンッと手を一つ叩いて。
紗枝は小さなレジャーシートを敷く。
その上に座って。
持っていた鞄を広げて、それを出していた。
俺もそのそばに座って、瞳を向ける。
思い出すのは彼女のことでも。
今は、彼女と一緒じゃない。
紗枝と…一緒なのだから。
考えながら。
蓋が開けられたそれに、浮かべた笑みは。
どこかぎこちなかった。
「聞きたかったんだけどさ」
頬杖を突いて。
空いた手で、カップを持ち上げながら、尽は口を開いた。
行儀悪いな、なんて、一言零してから、先を促す。
と。
「葉月はさ、何で姉ちゃんと別れたのかなーって」
カップを置くのと同時に放って、尽はじっと、俺の顔を見上げてくる。
俺はそれに、ゆっくりとカップを傾けてから。
「あいつがそう言ったから…だな」
そう、発した。
目の前では、何度も瞬きを繰り返している尽がいて。
「はぁ?」
「あいつが何度もそう言ってくるから…」
「………」
「そうしたいのかって」
「ばっかみてぇ」
頬杖を解いて、尽は背もたれに身体を預けた。
その発言に、俺は微苦笑を零す。
「だってそうだろ? 玲は葉月が言ったから別れたって言ってたし」
「だったな」
「葉月は葉月で、玲が何度もそう言い続けてたから。――何なんだよ?
それ」
「さあな」
返して、店の出入り口へと視線を移す。
その時に目が合った相手は、小さく手を振ってきて。
俺もそれに、手を挙げた。
「…紗枝さん、かぁー……」
振り返った尽は、ぽつりとそう零して。
「綺麗だし、可愛いとは思うけどさぁ。何て言うか……、ただ守りたいっていうだけの相手にしかならないよな」
綴られたのに、何を言えばいいのかわからなくて、俺は黙る。
守りたいという気持ちは、確かに掻き立てられる相手だとは思う。
現に俺も、彼女のことは守りたいと思っているのだから。
「守りたいだけ…って感じ。それ以上はちょっと、考えられないかな」
彼の言うそれ以上っていうのは。
きっと。
女として見られないとか、そういうことで。
「…って、俺が言えるようなことじゃないかもしれないけど」
「?」
「俺さ、今…好きなやつがいて」
「付き合ってるわけじゃないのか?」
「うん。そいつ、ものすっごく鈍くてさ。気づいてくれないんだよな。俺がそういう気持ちでいること」
「…そうか」
「そいつがさ。何しでかすかわかんないって感じで、見ててやらないとっていっつも思うんだ。転ぶ時は必ず、顔からだし」
「………」
好きなのが見ててよくわかるなって思った。
嬉しそうに話す尽の顔を見ていると、微笑が浮かぶ。
幸せが感染るっていうか、そんな感じで。
「他人とか、すぐに信用しちゃうし。だからいつか、絶対悪いのに引っかかるって思って、怒るだろ?
そうするとさ、しゅんってなって。ごめんねって言って。それがすごく可愛くてさ。こいつ絶対気づいてないって、本気で思うんだよ。こっちは理性保つのに精一杯だってのに」
内面にまで話が及んで。
俺は微苦笑。
でも、そういう部分は、ものすごくよくわかるから。
ただ黙って、その話を聞いていた。
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