空を見上げて
彼女が疑問を口にするのは 当たり前のことで空を見上げて
雲を見上げて
どこに行くんだろうね?
とか
何が見えるんだろうね?
とか
そんな問いには
答えられなかったけれど
考えることはできていたはずで
空に果てって
あるのかなぁ?
その問いにも
とりあえず
俺の思考は 流れていた
Bridge 〜 躊躇 〜
テレビを点ける気にもならなくて。
俺はただ、ばさりとそれを、テーブルの上に置いた。
あれほど言ったのに、と。
そんな言葉と共に押し付けられた新聞には、大きく『号外』の文字。
そして、俺の名前と、彼女の名前。
写真はそれぞれ、一人ずつのものだったけれど。
彼女が会見でもやったのか、それは事実として書かれていた。
うわさ程度の軽いものでしかなかったけれど。
それでも、彼女はあやふやに肯定の言葉を綴ったらしい。
べつに、それならそれで構わないと、俺は短く、息を吐いた。
――俺には見極めなければならないことがある。
そのためなら。
あの時までの幸せと。
今の、幸せと呼べるのかどうかはわからないけれど。
ただ、穏やかなように思える時間。
その二つはまだ、比べ物にはならないけれど。
けれど。
俺の想いが、気持ちが。
どちらを向いているのかを見極めるために。
新聞のそばに置いていた携帯が、不意に音楽を奏でて。
俺はそれを、手に取る。
開けて、映し出された番号に零れた笑みは。
それは――真実だった。
電話の内容は、簡単で。
『事務所の方から、会うのは控えなさいって言われちゃいました。当たり前かもしれないですけど、淋しいですね』
なんていうもので。
浮かんだ笑みはきっと、偽りではないのだと思う。
紗枝は似ているから。
だから、電話の相手が、幼い頃の彼女のような錯覚にさえ、陥ってしまう。
それでも紗枝は、『あき』ではないから。
考えて。
考えて。
会うためのその方法を考えようと、言葉を届けた。
その…あと。
無性に彼女に会いたくなったのは、仕方のないことなのかもしれない。
けれど、彼女が今、どこにいるのかわからなかったから。
俺はとりあえず。
外へと向かうために、ジャケットを手にした。
「氷室先生のマンション?」
事務所に足を向けて。
尽のスケジュールを確認したら、仕事で。
だからそこへと、足を伸ばした。
彼なら知っているかもしれないと、単純に考えたから、なのだけれど。
会うために。
着いて、姿を捜して。
見つけるよりも早く、声が耳に届けられた。
「そ。玲だったら、ヒムロッチのマンション」
尽と。
相手は藤井。
二人が話しているのは、彼女のこと。
俺はただそれを、足を止めて、そこで聞いていた。
「ホテル暮らしはさすがにヤメタって。やっぱり肌に合わないみたいだったしね」
「でも、どうして急に?」
「この前、取材交渉しに、はば学行ったんだってさ。で、その時にヒムロッチに会って。紹介受けたって言ってた」
「氷室先生と同じマンション…ねぇ……」
ぐっと拳を握ったのは。
悔しさから。
少し。
かなり。
後ろめたいものもあったけれど。
それでも、悔しさを感じずにはいられなくて。
俺はすぐに、踵を返した。
車を走らせて、駐車場へとそれを止めた。
見上げたのは、この中に彼女がいると思ったから。
見上げて。
群青へと色を変えていく空に、雲が横切っていくのが見えて。
俺は視線を逸らして、歩きはじめる。
マンションのエントランスへと入って。
とりあえず、郵便受けへと歩を進めた。
彼女の名前を探し出して。
その部屋の番号を記憶に留める。
インターホンの前へ歩いて。
その番号を押して、呼び出しては見たけれど。
応答はなかった。
どこかに行ってるのか?
考えて。
とりあえず、待ってみるか、と壁に背中を押しつけた。
さすがに帰れ、とは言わないだろう。
思いつつ、瞼を閉じる。
すぐに帰ってくるだろうか?
考えて。
氷室のとこに行ってるってことはないよな?
考えて。
それでも、その考えを遮った音に、俺は瞼を上げた。
がさがさという音は、下げているビニール袋から。
郵便受けの方へと消えた姿を認めて、俺はほっと、息を吐く。
一人でいてくれたこと。
それがただ、嬉しくて。
ありがたくて。
自分のことを考えたら……それは表に出してはいけないのかもしれないから。
すぐにかき消して、爪先を向けた。
俯いている彼女の前で足を止めれば。
彼女を包むようにできた、俺の影に、彼女は顔を上げた。
それから。
「何? 何か…相談?」
「……そんなとこ」
高校の時と変わらない表情での問いに。
答えを用意していなかった俺は、曖昧に答えた。
彼女に会うと、何を言ったらいいのかが――わからない。
わからなく…なる。
「なっちんから聞いたの? それとも、尽?」
「両方」
「そっか」
ガラス張りの扉の前へと歩いていく彼女に付いて、歩く。
彼女が鍵を刺して。
回して。
そうすることで、扉は開いて。
彼女に促されて、中へと入った。
彼女が入ってくるのを待って。
エレベーターのそのボタンを押したのは、彼女。
一階で待っていたその扉は開いて。
俺はまた、彼女に促されて、小さなその箱の中へと足を踏み入れた。
五のその数字を押して。
扉は閉められる。
壁へと背中を押し付ければ。
操作するそのボタンが並ぶそこから、彼女は動かない。
こっちを、向くこともない。
俺に見せられているのは、背中ばかりで。
俺は静かに、視線を伏せた。
「恋人、できたんだって?」
「……ああ」
突然の問いに。
俺は短く、肯定の言葉を口にする。
直後、彼女が零した吐息には、悲しさは含まれてはいなくて。
彼女が悲しんでいないことだけ。
それだけを理解した。
確かに彼女が望んでいるのは、それなのかもしれないと。
そうやって。
「そっか。ちょっと安心した」
「……おまえは?」
「いません。ってか、今は仕事が忙しいから、いいかなーって思う。余裕が出来たら考えるよ」
社交辞令、だったのかもしれない。
――半分。
聞かれたから、聞いてもいいんだろう、なんて。
そんな風に、軽い気持ちで。
それでもやっぱり、紡がれた言葉と。
零された微笑。
俺を見てくれたその瞳に。
俺の中に生まれたのは、安堵で。
けれど、その箱を出てからあとも。
彼女の家まで、俺はただ。
彼女の背中をずっと、見つめていた。
促されて、俺はソファへと、腰を下ろす。
そうしてから、部屋の中をゆっくりと見回した。
通されたのは、リビング。
奥にはキッチンがあって。
結構広いな、と思っていても。
瞳が止まったのは、彼女の背中。
キッチンへと一度、入って。
彼女は二つのペットボトルを手に、戻ってくる。
…コーヒーじゃない理由は、わかっている。
彼女はあまり、コーヒーは飲まないから。
大きい瓶や、袋では買ってこないんだろう。
だからここには、コーヒーはないのかもしれない。
「ごめんね、今これしか出せません」
テーブルの上に置かれたそれを、見ていると。
彼女は床へと、腰を下ろした。
彼女は俺を見ないままで。
俺は何を言ったらいいのか、わからないまま。
「………」
わずかに続いた沈黙を破ったのは、彼女の吐息で。
決定的に破ったのは、彼女の行動。
ペットボトルの蓋を開けると、炭酸のその抜けた音が、耳へと入ってきた。
同時に、彼女が口を開く。
「平気なの?」
「…何が?」
「何がって…恋人。こんな時間に、元恋人である僕と二人っきり。しかも、ここは僕の部屋」
「べつに……大丈夫だろ」
「そうかなぁ? 女の子って、結構繊細な生き物だよ?
あとでフォロー、いっぱいしなさいな」
笑みに、なお。
何を言ったらいいのかが、わからなくなる。
吹っ切ったかのような、彼女のセリフ。
「で? 相談って? 仕事関係?」
「………」
言われて。
また、何も言えないまま。
顔ごと、視線を伏せた。
彼女に会いたかった理由は。
話をしたかった理由は。
今の彼女の気持ちを、知りたかったから。
けれど、どうやって切り出せばいいのかが、俺にはわからないままで。
ぎゅっと、手を握り締める。
「…時間、掛かりそう?」
そう聞いてきたのは。
彼女はわかっているから。
俺が聞きたいことを。
俺が……確認したいことを。
「君が聞きたいこと、当ててあげようか?」
やっぱり、気づいているのだと、その言葉で確認する。
肩が震えてしまったのは、もう、このまま黙っていることはできないのだと。
ぬるい、この空気に浸っていることはできないのだと。
そう、告げられたような気がしたから。
俺のことを見てくれていた瞳は、逸らされて。
彼女はゆっくりと、話しはじめた。
「今ね、別に…悲しくない」
そんな気はしていたから。
ただただ俺は、彼女の言葉を聞き続ける。
「無理…してるのかも、しれないけど。でも、大丈夫みたい。心配することは、ないと思う」
「…ああ」
「別れたのは、そうしようって決めてたから。なっちんから聞いたかもしれないけど、君の言う通りにしたかったの。君の困ったところ、僕が見たくなかったから」
「………」
「前に戻っただけなんだって、今は思ってるし。思い出に擦り替えるのも、そんなに……苦じゃなかったし」
「………」
「君は君で、幸せ探してくれれば、それでいいから。君が幸せなら、僕もきっと、幸せだからさ」
ね?
と、畳みかけられて。
笑みが届けられて。
彼女の幸せは、俺の幸せなのだという、その言葉を反芻し続けていた。
なら俺は。
彼女の幸せのために、幸せにならなくてはいけなくて。
けれど、俺の幸せだって、彼女の幸せだったはずで。
だから、俺がすることは。
見かけだけでも、幸せにならなくてはいけないという。
そのこと……で。
「あとね、どうしても…聞きたいことがあったんだけど」
「何だ?」
いつになく真剣なその声音に、俺は顔を上げる。
彼女は顔を上げることなく、逆に、俯かせていて。
軽く、手を膝の上で、固めていた。
横顔は…逡巡のそれで。
彼女が言葉を紡ぐのを、じっと待ち続ける。
「…葉月くんは、本当に好きだった?」
問われて。
急に何を言うんだろう、と。
本気で思った。
「……当たり前だろ?」
「そうじゃなくて…」
返答をすれば、彼女は頭を緩く振った。
否定の言葉を、綴りつつ。
「子供の頃のわたしじゃなくて、今のわたしのこと」
眉根を寄せて、意味を考える。
言葉を紡がずにいると、彼女はゆっくりと、続きを口にしはじめた。
「自分でもわからないわたし自身のこと。君は本当に捜してくれてた?
わたしはいつだって、『僕』じゃなかった?」
「…それは……」
「わたしは、わからなくなった。君のことを好きだと言ってるのが、誰なのか。わたしであるはずなのに、『僕』のような気がしてならなかった。君を手放したくなくて、どうしようもなかったから、『僕』が君が望んでる『わたし』を演じてるのかもしれないって、思いはじめてた」
言葉に、目を細める。
彼女が悩んでいたことは、それで。
確かに俺は、捜してはいなかったかも、しれなくて。
どちらでもいいと、そう、思ってしまっていた。
そばに、隣りにいてくれるなら、それでいいと。
誰でもよくはないけれど。
彼女ならば、それでいいと。
そんな風に、思ってしまっていた。
視線を伏せて。
彼女から外して。
俺は両手を握り締める。
「それだけは言えなくて。言ったとしたって、誰が答えをくれるわけじゃないし」
「玲……」
「ごめん。今更かもしれないけど、どうしても聞きたかったんだ。でも、もういい。開き直って、『わたし』であることをやめればいいんだって、ここに来て考えたりしてるから」
言わせてしまったのは、俺で。
やり方を間違えてしまった、俺で。
視線を受けて、顔を上げる。
淋しそうに笑っている彼女は。
どこか半分、諦めたようで。
それでも半分、吹っ切ったようで。
見ていられなくて、視線を逸らした。
「だからね? もう平気。だって『僕』は。いつも元気で、強くって明るくって、みんなを引っ張っていかなくちゃいけないんだしね」
言い放った彼女の声は、明るかったけれど。
苦しくて。
俺でさえも、息をするという、それだけのことが、苦しくて。
「ってわけで、玲ちゃんの話は終了! 他に言いたいこととかあったら言って。聞いてあげるから」
彼女の声に、笑みが含まれる。
無理をしているということは、わかっているのに。
彼女だって、それはわかっているんだろうとは、思うのに。
「………」
何も言えずに、ただ自分の手だけを見ていた。
彼女に、その覚悟をさせてしまったのは、俺で。
彼女にこんな言葉を言わせてしまったのも、俺で。
口を開けば、きっと。
衝いて出るのは、謝罪の言葉。
けれど、彼女がほしいのは、それではないから。
わかっているから。
わかって、いるから。
カチッと、時計の針の音が、耳に入った。
「ないなら、帰りなさい。君の幸せの場所は、ここじゃないでしょう?」
言われて。
一度、瞼を伏せる。
確かにここは。
今の俺には、息苦しい場所でしか、なかったから。
何の言葉も落とさずに。
俺はゆっくりと、腰を上げた。
暗闇の中、俺は歩き続ける。
何かを、あの子供に言うため。
けれど未だ、何をどう言ったらいいのかは、わからないまま。
あの子供が望んでいるのは。
刺を持たない、そんな手で。
それでも俺の手には、きっと。
その刺はあるのだろうと思う。
あの子供が、あの子供のままでいられる、そんな場所。
そんな人の、隣り。
もし、橋を渡って、あの子供の前に行って。
そうして、手を差し伸べることができたとしても。
きっと、逃げていくだろうと思うから。
それでも、何かはしてやりたくて。
俺は暗闇の中を歩き続ける。
今は、どこかにある、橋を目指して。
あの子供に、会うために。
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