小さな風が 少しばかり吹いたからと言って
彼女との距離が 縮まるわけでもないし
逆に 遠くなることもないとは思う

それでも 願わずには――いられなくて

今 この海から来る風に 心を預けることができれば……


そんなことをつらつらと
考えずには いられない

自分の力でどうすることもできないのだから
ほかの何かの力を借りたいと願うのは

当然のこと だろ?




Bridge 〜 微望 〜





春先。
そんな時季だから、風は冷たくて。
俺はガードレールに小さく腰かけていた。
手には携帯。
ここに来るはずのもう一人が来ていないから。
ただただ、その人物からの連絡を待って。
待っているだけじゃなくて、俺からも電話をかけてみる。
仕事だけの付き合いだと、彼女が言うなら。
それを多いに、利用するだけの話で。
そう、吹っ切って、電話をかけているのに。
『田端 玲』の、その番号には。
何度かけても、繋がりはしない。
電源は切られてはいないのに、出ない。
声は聞こえない。
避けられてるのか?
俺……。
思うと同時に、息を吐く。
「だから言ってるでしょ? 玲は今日、別の仕事の方で用事が入っちゃったから来られないんだってば」
俺が抜け出した人の輪からは、常にそんな声が上がっている。
彼女と、仕事だけではない、ほかの接点が与えられている人物で。
仕事だけを取っても、俺以上に、彼女には近い人物――藤井――が、彼女がここに現れないことの説明を繰り返していた。
脚本家以外の仕事って言うと…小説、か。
考えながら、もう一度、通話ボタンを押して。
出てくれることを期待しながら、その画面を見続ける。
「それはわかったよ。けど何で、それを本人が言いに来ないんだよ? 玲だって、このCFの責任者だろ?」
応対してるのは、部外者であるはずの、彼女の弟で。
俺はその言葉に、小さく、確かに、なんて、言葉を綴った。
ここに来られない理由があるのなら、彼女自身の言葉で聞きたい。
直接。
仕事だけでの付き合いだけだと、彼女が言ったのにもかかわらず。
避けられているようにしか思えないのは、気のせいではなくて。
「だからそれは――…」
「だって、今までにだって、何度もこういうことあったじゃないか。その時は、葉月の方に連絡があって。ついでに、葉月に重要なポイントをアドバイスしてただろ? なのに…、どうして今回に限って、奈津実さんに連絡が行って、何の伝言もないんだよ」
「だからそれは!」
会話を聞きながら、海へと視線を投げる。
海は、彼女の好きな場所の一つで。
朝から晩まで、彼女はずっと、海を眺めていたいと、わずかに漏らしていた。
朝には朝の顔があって。
夜には夜の顔がある。
そう言って。
現に、海から朝日を臨んだ時は、その時間だからこそ、見られた光景なのだと思ったし。
昼間は、海も空も真っ青で、清々しくて。
夕方は、オレンジ色の夕日が、海に反射して。
空も海も、オレンジ色で……綺麗で。
夜は、闇の中にいるとは思えないほど、静かだった。
その移り変わりを、ずっとここで見ていたいのだと、彼女は言って。
このCFの話の時、すぐに海が浮かんだのだと、笑っていた。
『珪が上手く出来なかったら。きっとわたし、ずーっと、海見てられるよね?』
なんて、笑っていた。
どの時間でも、俺は映えるから。
どの時間でも、この脚本には合うから。
だから、いくら失敗してくれても大丈夫だよ?
なんて、言って。
笑って。
――思い出しているその間にも、コール音は鳴り響いていて。
彼女に呼び出しをし続けてくれている。
それでも。
留守電に切り替わった瞬間に、俺は通話を切った。
さっきから、これの繰り返し。
わかってはいる。
これを彼女が書いた時。
俺達がこんなことになっているとは、思ってもいなかったんだろうことは。
わかっては、いるのだけれど。
「姉ちゃんはズルイよ」
呟かれた言葉に、俺は視線を上げる。
藤井も、はっとした顔で尽を見て。
すぐに、視線を逸らしていた。
「いつもこうだよ。大事なことからは、すぐに逃げるんだ。自分がいない方がいいって、勝手にそう思ってさ。自分と葉月が顔を合わせたら気まずくなるから。そう思ってるんだろうけど。だから、仕事が進まないとか、そう思ってるんだろうけど。いつかはぶつからなくちゃいけない壁だろ?」
「だからって……、今じゃなくたっていいじゃない」
「早い方がいい。その方が、みんな、諦め付くじゃないか」
「みんなのためを考えたら、そうかもしれない。あの子のことを考えても、そうかもしれない。けどね? あの子の気持ちも考えなさいよ? あの子はずっと、誰にも言えない気持ち、抱えてたんだよ!?」
「!」
言われたことに言葉を失ったのは、周りにいる誰もが同じで。
俺でさえも、大きく目を見開いたあと。
苦々しく、視線を防波堤のそこへと落とした。
「麻衣がいなくなってから、あの子は変わっていった。葉月とケンカし出したのは、自分に責任があるって言って、聞かなかった。麻衣に今まで言ってたことを、これからは葉月に言うべきだったのに、言えなかったって。それってさ、葉月にも原因、あるんじゃないの?」
視線を送られて、俺は拳を強く、握ることしかできなくて。
固く、握り締めることしかできなくて。
「そう言ったアタシに、あの子は首を振り続けてた。彼は悪くない。打破しようとしなかった、勇気の持てなかった自分が悪いんだって。涙いっぱい溜めて、笑ってた。誰にも寄り掛かれなくて。それをしたかった相手にさえも、自分が支えることで精一杯になってて。あの子は言いたいことも言えずに、ずっと自分で抱えるしか出来なくて。吐き出す場所なんか、どこにもなくて。泣きたいのに、笑うしかなくて」
「………」
「嘘吐きになりたくなんてなかったのに。それなのに、彼のそばにいるには、必要なことだったからって。それってさ。葉月には都合、よすぎるんじゃないの?」
「…でも! 姉ちゃんはそれを言えばよかったんだ」
「葉月に?」
「そうだよ。そうすれば……」
「それでも葉月は自分を受け入れてくれるかもしれないって思う? 相手は笑ってるのに、自分は泣いてたら、おかしいでしょ? 変なヤツって思われて、遠くなったら、元も子もないじゃない」
「………」
「だからあの子は、笑い続けた。自分が支えなきゃ、彼は一人になっちゃうからって。それで、自分が一人になってることに気づいてたのに。他の誰も、求めようとしなかった。その辺り、ちゃんと気づいてあげなきゃいけなかったんじゃないの?」
何も言えずに、項垂れて。
きつく、瞼を閉ざす。
藤井の声が止めば、誰の声も、聞こえなくなって。
耳に届くのは、海の波の。
その音だけになって。
「……今更言ったって、遅いけどさ」
小さく呟いて、藤井は歩き出す。
カメラマンのそばへと行って、短く打ち合わせして。
その姿を見ながら、俺は息を吐き出して。
吸って。
呼吸を繰り返して。
それはいつもより大きいと、微かに感じ取る。
事実を知らされる度に、こうして身体中が痛みを発して。
反論の声は、声にはならなくて。
気づいていたはずだったのに。
藤井の言う通りだと、認めざるを得なくなる。
俺は俺の都合のいいように、解釈を繰り返していただけ。
すべての心を、気持ちを、汲み取るような彼女だったからこそ。
勝者の気持ちも、敗者の気持ちも。
そして、それに巻き込まれた人たちの気持ちも、痛いほどに、わかってしまう。
そんな彼女だからこそ。
俺の気持ちも、手に取るようにわかっていたんだろう。
だからこそ彼女は、俺のために笑い続けて。
俺のことを、すっぽりと包み込んでくれた。
けれどそれは、彼女に言わせれば、彼女自身のためで。
俺に合わせてくれていたのも、彼女自身のためで。
それでも俺には、ありがたくて。
そうしてくれる彼女を、手放せなくて。
時々、痛そうな表情をする彼女を、無視し続けた。
手にし続けていた携帯が、音を奏でることはなくて。
耳に届けられるのは、波の音ばかりで。
風が吹き抜ける、その中で。
ただ、彼女に謝ることさえできればと。
切に、願っていた。



CFの撮りも終わって、俺は家へと歩いていた。
ただ、一人ではなくて。
隣りには、もう一人…尽がいる。
「昨日、姉ちゃんに会ってきたから」
そう、切り出してきて。
詳しく話を聞きたかったから、俺は自分の家へと招待した。
何も、持て成しはできないし、する気もない。
それを察してくれている相手だからこそ、場所を提供してくれるだけでいいと、笑ってくれて。
俺達は、ただ無言で、歩いていた。
藤井に言われたことを、お互いに反芻しつつ。
だから、着いた時には、その話から入っていた。
「奈津実さんの言い分もわかるよ」
そんな風に、尽から。
「けど、姉ちゃんにしてみたら、辛いと思う」
「どうして?」
「今は姉ちゃん、一人でいたい、って感じだったから。昨日、会いに行った時」
コトッとコーヒーだけ入れて、カップを置く。
目の前からは、「どうも」という声が零れて。
それからまた、ゆっくりと、会話を繋げた。
「多分、姉ちゃんのことだからさ。葉月に会うには、それなりの覚悟が必要で。もっと言えば、葉月を傷つけないために、綺麗に笑わなくちゃいけないって考えてるんだと思う。……って、これ、俺が最初に思ったんじゃないんだけどさ」
「?」
「麻衣姉…がさ。昨日、電話くれて。姉ちゃんに会いに行く前、家に。で、ちょっと話したんだ。姉ちゃんの様子は、まだ会ってないからわかんないけど。葉月とはまだ、顔を会わせてないみたいだって言ったら、そう言ってた。あいつは、本当の気持ちを隠して、偽りの心で対処し出すと、手が付けられなくなるからって。多分今は、そっちへとゆっくり、移行させてるはずだって。だから、何か。何かが起これば、玲は簡単に、偽りの心で対処し出して。演技をしはじめて。どうにもならなくなるかもしれないって」
「………」
「葉月が会いに行くのは。葉月と会うのは、多分、そっちへの傾向が強くなるだろうから、やらない方がいいって」
「そうか……」
「やるんなら、電話の方がいいってさ。会うと、表情で誤魔化されるから。入ってくる情報は、少ない方がいいって。声だけなら、すぐにわかるでしょ? って、言われた」
「………」
「俺はわかるからさ。昨日、その辺、突っ込んで聞いた。葉月に言いたいこと、言えばよかったんだって。玲はもう、諦めたような表情浮かべてた。『もう、遅いし』って、何度も言ってた。でも、姉ちゃんも葉月のこと、好きだよ。葉月に困ったような顔、させたくなかったんだって言ってたから」
それでも、俺は傷ついた。
薬は何もなくて。
俺自身が招いたことでもある、この状態に、どうしようもなく、打ちひしがれて。
どうすればいいかもわからずに、闇ばかりを、見続けて。
「自分と一緒にいるよりも、幸せだと思えることがあるなら、それをやってほしいって、玲は言ってた」
そんなもの、あるはずがない。
緩く、小さく首を振る。
こんなにも、今は。
彼女を抱き締めたくて、仕方がないのに。
全身で、そう思っているのに。
「それから、わがままを言ったことないって、言ってた」
「…?」
顔を上げて、尽を見て。
それから俺は、どう言おうかと考えたけれど。
それでも、彼女をほかの呼び名では呼びたくはなくて。
「玲が? そう…言ってたのか?」
口にしたのは、それだった。
「うん。多分、ないって。それでも、言おうとは思ったって。何度も」
言われて、テーブルへと、視線を落とす。
いつだって、彼女は願いを口にしていたけれど。
それは、わがままではなかったのかもしれない。
わがままはわがままであって。
ほかの何物でもないから。
俺がわがままだと思わなければ、それはわがままではなくて。
「でも言えなかったのは、葉月の中にいる自分が、今とは逆だと思ったからだって」
「…逆?」
「そう。逆」
「………」
「昔の自分だったら…って思うと、言えなかったって。昔のまま、可愛くて、ふんわりと笑っているような女の子だと思われてるなら。言ったら必ず、彼の中のイメージは壊れるから。それをしたくなかったから、言わなかった。そんな風に言ってた」
そんなことはなかった。
いつだって、俺が見ていたのは、今の彼女で。
それでも時々。
本当に時々。
やっぱり、『あき』は彼女なんだと、そう思うこともあったけれど。
それは本当に――稀で。
ただ、それをそのまま告げたとしても、彼女は信じてくれないかもしれなくて。
だとしたら、証明することが、必要で。
それをするには――俺はどうしたらいい?
「今日、来いよって言ったんだけどな。俺じゃ、強制力は薄かったのかもな」
「そんなことない」
努めて明るく言った尽に、俺も薄く笑みを浮かべて、そう返した。
尽だけが、何だか、俺と彼女を繋いでくれているようで。
ありがたくて、申し訳なくて。
「悪いな」
そう届けることしか、できなかった。

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