去年
彼女が作ってくれた弁当を手に 花見に行って

綺麗だね とか
雪みたいだね とか

そんな言葉を言い続けていた彼女が

その…帰りに

彼女にしては 控えめに

「来年も…一緒に来られたらいいね?」

そう言っていたのを 思い出した




Bridge 〜 叱諦 〜





「…はぁ?」
言っておかなければならない人物が、俺にはもう一人いて。
その人物が、タイミングよく、目の前に現れた。
理由はよく、わかっていて。
だから俺も。
べつに逃げも隠れもしなかったけれど。
綴った言葉に落とされたのは、やっぱり――驚きで。
俺は鏡が並ぶ、その前に。
背を向けて、立ったまま。
浅く、寄りかかっていた。
何をしたらいいのかわからないまま。
ただ、そうやって、目の前の人物を見続けて。
「昨日、母さんに言われた。姉ちゃんから、葉月の家を出たって電話が来たって」
「そうか」
「そうか、じゃなくてさ! 別れたって…何でだよ……?」
語尾をすぼめて、尽は言って。
いすへと深く、腰かけた。
項垂れている姿は、一昨日の俺のようで。
俺は視線を逸らす。
なぜかなんて、わかり切っているはずで。
それを口にすることは、容易いはずで。
けれど、きちんと伝えられるかどうかは――俺にはわからなくて。
「起因は?」
「?」
「何でそうなったか、理由だよ! 理由!」
必死な顔で、尽はそう言って、身を乗り出してくる。
怒ってくれているのはきっと。
彼女のためで。
そして…俺のためで。
俺は小さく息を吐いたあとで、「いつものケンカ」と、言葉を落とした。
「ケンカぁ?」
「ああ」
「ケンカって…あれだろ? いつもの」
「…ああ」
「でもあれってさ、葉月が聞き分け悪いからじゃん。姉ちゃんは悪くないって思う。多分みんな、そう思ってるはずだぞ?」
「知ってる。けど…あいつは何も言い訳してくれなくて」
「それはだって、玲だからだろ?」
「………」
名前を出されて、目を細める。
尽が実の姉のことを名前で呼んでいるのは知っていたけれど。
今この状況で言われると、少しだけ、いい気分はしなくて。
「玲はおまえの意見は合ってるって思ってたと思う。だから、何も言わなかったんだよ。その代わりに、ああ言ってたんだろ? 葉月が怒って。怒らせてるのは自分で。怒るのは、気分のいいものじゃないから。だから、葉月の気分は、いいわけがなくて。そうさせているのは、他でもない自分だから。だから自分は、葉月のそばからいなくなった方がいいって。そういう理由で、玲はあの言葉を言ってたんじゃないのか?」
「……かもな」
「かもな、じゃないって!」
言ったあと、尽は今度は頭を抱えて。
俺は時計へと、目を向けた。
もうすぐ、休憩が終わる。
そうなったら、この話は、一旦…切らなくてはならなくて。
「――葉月は姉ちゃんのこと、ちゃんとわかってるんだって、思ってた」
吐き出された言葉に、俺は視線を戻す。
そこには、まだ、瞳を床に向けたままの、尽がいて。
その横顔は、酷く悲しそうで。
辛そうで。
「俺でも…弟の俺でも、姉ちゃんのことは、あんまりよくわかんなくて。何考えてんだか、わかんないとことか、すっごくあって。でも、姉ちゃんの言葉は、いつでも合ってた。六歳しか違わないはずなのに、あと十歳ぐらい違うんじゃないかって。そんな風に思うことも、いっぱいあった」
「………」
「でもそれってさ。姉ちゃんが辛い思いをいっぱいしてきたからだろ? 姉ちゃんが言ってたんだけどさ。『わからなくていいことまで、見えちゃって。別に、理解しなくてもいいことまで、理解出来ちゃってる。それって、決して、いいことじゃないと思う。どちらかといえば、悪いことだ』って。そう、言っててさ。それって、みんなと違うってことだろ? つまり、みんながしなくても、乗り越えなくてもいい辛さを乗り越えてきちゃったってこと」
きっと、それを経験させてしまったのは、俺で。
彼女をあんな風にしたのは、俺で。
周りの心に敏感にさせてしまったのは、俺で。
その償いというわけではないけれど、そばにいたいと思っていたのも、俺で。
俺の…はずで。
「葉月と付き合うってなった時、姉ちゃん、すごく幸せそうでさ。それからあとも、嬉しそうだった。だから俺、もう姉ちゃんは辛い思いをしなくてすむんだって思ってた」
「………」
独白みたいな言葉は、続いていて。
俺はそれには、言葉を挟めずにいて。
聞くことしか、できなかった。
尽の顔も、直視することはできなくて。
「姉ちゃん、自分の前に幸せが転がってると、誰かにそれを教えちゃう癖みたいなの、あるんだ。自分は一番最後とか。幸せになっちゃいけないとか。そんな風に思ってるみたいに」
それは…彼女の親友も言っていた。
思い出して、小さく、苦笑を零す。
そしてそれを、俺は高校時代に、何度も見てきた。
その度に、俺は彼女の視界を遮ったり。
ばかか? と、声を漏らしてきた。
そんな風に――こんなにも俺は、彼女のことをわかっていたはずなのに。
それなのに……間違えた。
消しゴムで消すみたいに、簡単になかったことにはできないところまで。
それを払拭するチャンスは何度も――あったのに。
与えられていたのに。
「でも…姉ちゃんの言葉は、いつも合ってたけど」
綴られはじめた言葉に、俺はまた、尽へと瞳を向ける。
俺には気づいていないのか、やっぱり…尽は床を見つめたままだった。
「否定されるの、待ってたんだと思う」
「? どういう意味だ?」
「そのまんま」
ようやく、顔を上げて俺を見た尽は、痛々しい表情を浮かべていて。
微笑のような…苦笑のような、それを…浮かべていて。
「麻衣姉――姉ちゃんの親友だけど――は、いつだって、姉ちゃんの言葉とか、考えとか。一応受け入れてたけど…でもって、反論してた。玲のそれはわかるけど。その考えはわかるけど。こっちの方が、自然に受け入れてもらえるでしょうが。とかって。姉ちゃんの反論を封じて、自分の意見を口にしてた」
「………」
「姉ちゃんの考え方、かなり突飛だからさ。疑問とか、定義とか。そういうのが出るよりも先に、答えの方が先なんだよ。それでようやく、自分は何でこういう風に思ったんだ? って考えはじめて。だから、定義は、後付けなんだ、姉ちゃんの場合。強引に思えるけど、姉ちゃんの中で起こった疑問を全部解いてるから、その定義はものすごく正しい。けど、それを全部、ひっくり返すぐらいの反論が欲しいのかもしれないって、思う時があるんだ。自分の意見が通ると、時々、姉ちゃん、驚いたような声、上げる時があるから」
『あ…、通っちゃった』
思い出して。
場面も、彼女の驚いたような声も。
そのあとの、微妙な苦笑の表情も。
すべてを思い出して、目を閉じる。
すぐそばで聴けていたものが、今は遠くからでしか、聞くことはできないもの。
すぐそばで見られていたものが、今は遠くからでしか、眺めることができないもの。
今は、そんな風に変わってしまって。
その事実が、俺の上に重く、圧しかかる。
「だから…姉ちゃんはきっと、待ってたんだと思う。そういう、小難しいことを考えてる自分ごと、否定してくれることを。そうしてくれる、人のことを」
「……でも」
「とにかくさ、葉月はまだ、姉ちゃんのこと、好きなんだろ?」
言われて、瞼を上げて。
その問いには、答えなんか、一つで。
「当たり前だろ?」
はっきりと、そう告げた。
「……だよな。俺が来てるから、多分……スタッフの誰も、呼びに来ないんだろうしな、ここに」
「?」
「葉月の落ち込み様、見ててこっちまで暗くなる。だからだろ? みんなわかってんだよ。葉月と姉ちゃん、二人並んでないとおかしいってこと」
言われて、小さく笑みを浮かべた。
きちんと笑えているかどうかはわからなかったけれど。
もしかしたら、俺のも、痛々しくなってしまっていたかもしれないけれど。
それでも、大丈夫なのだと。
建前だけでも、そう伝えたかったから。
――他人の存在が、こんなにも、ありがたいとは思わなくて。
「近いうちに、姉ちゃんに会ってくる。姉ちゃんの気持ち、確かめたいし」
「ああ」
「だからって、俺に頼るなよ? 葉月は自分で、玲を取り返せ」
「わかってる」
答えれば、尽はほんの少し、明るい顔をして、部屋を出ていって。
俺はそのあとを追えずに、まだ控え室に篭っていた。
わかっているとは答えたけれど。
――けれど。
彼女のそばに行く術を、俺は知らないままで。
何を言って、どうすればいいのかを、俺はわからないままで。
一度、持ってきていたバッグを瞳に映した、そのあとで。
俺はそこを、あとにした。






あの暗い家の中にいる気はなかったけれど。
それでも、ほかに行く場所も、帰る家も思いつかなくて。
仕方なく帰ろうと、支度を整えて、控え室をあとにして。
呼び止められたのは…その時だった。
振り返ると、そこにいたのはカメラマンの……確か、五十嵐? …さんで。
そばには一人の女。
陰に隠れるみたいにして、こちらを伺っていて。
俺はわずかに、眉間に皺を寄せる。
「よかった、まだいてくれて。紹介するよ。知ってるかもしれないけど、紗枝ちゃん」
「紗枝です」
「ああ…、葉月…珪」
「知ってます。いろんな所で目にしてますから」
「……どうも」
控えめに笑って、そいつはどうすればいいかわからない、みたいに、視線を送ってた。
俺にじゃなくて。
そばにいるカメラマンに。
「でね。今度、仕事してもらうことになったからさ。ちゃんと、顔合わせ、やっておこうと思ってさ」
「………」
なるほど、なんて思いながら、話を聞く。
挨拶回りをするのは、最初の頃はみんなやることで。
それをしにくるってことは、その仕事は結構長引くのかもしれない、なんて思った。
その日一日だけなら、別にその日に会って、頭を下げて。
仕事をして……それで終了なのだけれど。
事前にってことは、少し長い付き合いになるかもしれないけどってこと。
そして、ふと、思い出した。
「…紗枝?」
「あ、はい!」
「紗枝って……俺の?」
「そうだよ? 何ボケてんの? 葉月くん。君がこの前の会議で、自分のブランドのイメージキャラクターにした人物でしょうが。紗枝ちゃんは」
言われて。
忘れてた、なんて言えずに、息を吐いた。
正確に言えば、俺が決めたんじゃなかったから。
今、売れはじめているし。
そういうモデルをイメージキャラクターに当てれば、ブランドの注目度も上がっていく、とかって。
誰かが言っていて。
俺は、そういうもんか? なんて思いつつ。
口を挟まずに、成り行きを見守っていただけだったから…。
「決まったって言われた時、嬉しくて。葉月さんのデザイン、どこか暖かくて、優しくて――好きだったから」
心の底から、そう思っているかのように、彼女は嬉しそうにそう紡いだ。
胸の前で、手を組んで。
それを見ていた俺に気づいても、彼女はにっこりと微笑むだけで。
「頑張りますね、私!」
小さくガッツポーズを繰り出して、彼女は言う。
その様が何だかおかしくて、俺は小さく、笑みを零した。
――思わず。
「それじゃ、今日はこれでね」
「そうですね。葉月さん、お疲れさまでした」
「ああ」
ぺこりと頭を下げて、彼女は踵を返す。
一緒にいたカメラマンに、何事かを話しながら、廊下を戻っていって。
まだそこに居続けていた俺を振り返って、小さくまた、頭を下げた。
ずいぶん、周りに気を使ってるんだな、あいつ。
思えばまた、笑みが零れて。
その理由にも、俺は気づかずに、目を細める。
とにかく、現実を見据えるため。
それから逃げないために。
俺は外へと、また、歩きはじめた。

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