彼女がそれを言っていたのは
高校の 夏のこと「クラシックだと思うから
曲名はわからなかったんだけどね?」
そう言っていたのに
次の日には
「曲名 教えてもらって
で 弾いてもらっちゃった」
なんて 嬉しそうに言っていた
「ピアノ 好きじゃないだろ?」
聞けば
彼女はきょとんとして
「好きじゃないけど
嫌いでもないよ?」
そう言って
「優しい音なら
とりあえず
何でも好きなのかもねー」
そんな風に 笑ってた
それに 眉根を寄せて
不機嫌を 露にして
そうしている理由さえ
その時の俺には
まだ
わからなかった
Bridge 〜 発生 〜
家に着いた途端。
彼女は自分の荷物を持って、部屋へと駆けていった。
熊谷にもらった本はどうするのか聞いたら。
仕事部屋の本棚に入れる、との答えで。
俺はそうするために、階段を上がる。
本が入った袋を提げて。
重いと思ったけれど。
それを彼女に言ったら。
必ず、「やってとは言ってない!」って、言うだろうから。
俺は無言で、それを彼女の仕事部屋まで運んだ。
彼女がいなくなってからずっと。
その部屋の本棚に、新しい本が入ることはなかったのだけれど。
今はもう、彼女が帰ってきたのだから。
また、本が増えていくんだろうな、なんて、笑みを零す。
本棚に入れながら、何の本かを確認して。
俺の仕事でも使えるか、なんて、考えてた。
使えるなら、今度貸してもらおう、とかって考えながら。
全部を入れ終えて。
俺は空になった袋を手に、リビングへと戻る。
けれどそこには、まだ彼女の姿はなくて。
ひとりで平気かと、心配になった。
……から、リビングから出て、瞳を向ける。
その扉は開いていて。
中からの音は止んでいたから。
俺はそこへと、爪先を向けた。
彼女がこの家を出て、三ヶ月ぐらい経っていたけれど。
そこを片づける気には、ならなかった。
足を向ける気にも、ならなかったけれど。
この部屋は彼女の部屋と、そう決めていたから。
俺がどうこうしていいものじゃないと、そう――思っていたのかも、しれなくて。
「玲」
声をかけつつ、部屋へと入る。
部屋の中は、彼女が出ていく前の状態に戻っていて。
彼女も、そこにはいて。
ああ、帰ってきたんだな。
そう、実感していた。
「何?」
振り返った彼女に、微笑みを送る。
そうしながら、扉のそばの壁へと、背中を付けた。
「夕飯、どうする?」
昨日の約束を、俺は忘れてはいなかったけれど。
けれど……彼女の左手は、まだ動かないままで。
どうするのだろうと、思っていたから。
確認のために、俺はそう、彼女へと問いを投げた。
「あ、そっか。どうする? 食べに出る?」
「俺としてはおまえの手料理が食べたい。昨日言っただろ?」
「うん。そうなんだけど。僕、左手動かないじゃん?」
「………」
「だからね、僕としては、君に作って欲しい」
「……」
「言いたいことがあるなら、どうぞ?」
言われて、俺は彼女をじっと見る。
食べに出る?
それは嫌だと思う。
できれば今は、二人でいたい。
けれど、俺は作りたくはなかった。
その間、俺は彼女に、背を向けてしまうから。
彼女を見続けることはできなくなる。
したいことなんて、たった一つで。
やりたいことなんて、たった一つで。
考えて、頬が熱くなってきてしまったことに。
俺はそれを隠すように、自分の口元に片手を当てた。
彼女の眉は、すぐに寄せられる。
「食べに出る」
作りたくはなかったから、そう答えるしかなくて。
そうすれば、彼女からは、少し、投げやりな返答。
はいはい、なんて。
けど俺は、それを聞いてる余裕なんかなくて。
俺がしたいことをするには。
やりたいことをするには。
どうすればいいのか、と。
ただそれだけを考え続けてた。
そんな俺に気づいて。
彼女の眉間の皺は、ますます深くなる。
「珪?」
「でも、二人でいたい」
告げれば、彼女は一気に、全身の力を抜いたみたいだった。
だらんと両腕を垂らして。
「んじゃ、何か頼もうか」
そう、言葉を綴る。
なるほどな。そうなるのか。
思って。
だったら…なんて考えて、彼女の顔をじっと見た。
歩き出そうと踵を返した彼女は。
俺の視線に気づいて、その足を止める。
そうして、また、同じ場所に皺を刻んだ。
「なぁにぃ?」
聞かれて。
でも、そのままを言えなくて。
俺は視線を逸らす。
「言いたいことがあるなら言ってくださいって言ったよね?」
「べつに…そこまで言いたいわけじゃない」
「嘘吐き。言いたいこと言わないと、ストレス溜まっちゃうよ?」
「それはおまえだけだろ?」
「みんなそうじゃないの?」
言いたいことがあるなら言え、とは言われたけれど。
言えなかったから。
俺は行動に移すことに決めた。
彼女に近づいて。
身体を屈めて、目の前の身体を抱き上げる。
「ちょ、ちょっと?」
栄養失調で入院してたぐらいだから…とは思っていたけれど。
やっぱり彼女は、少し、軽くなっていた。
彼女の膝の辺りを抱えて、持ち上げて。
それを確認していると。
彼女はぎゅっと、俺の肩の辺りを掴んでた。
うまく、彼女の抵抗を封じ込められていることが、嬉しくて仕方がない。
「下ろしてよ」
「嫌だ」
「じゃぁ、どうするつもりなんですか!?」
声を上げた彼女に、くすくすと笑う。
「なぁ」
「何?」
きっと。
幸せって、こういうことを言うのかもしれない。
こういう、些細なことを。
「珪?」
その。
俺の幸せの元を抱えたまま、部屋を出た。
彼女は頭をぶつけないようにと必死で、抱き着いてきて。
その重さと暖かさに。
やっぱり嬉しくて、俺は笑い続けてた。
リビングに入って、ソファまで歩く。
その前で一度、彼女を降ろして。
身体を反転させて。
ソファに腰かけてから、彼女の腰に腕を回して。
俺の膝の上に、座らせた。
久しぶりだな、こういうの。
思いながら、彼女の肩の上に、顎を乗せる。
「あの、逃げませんが?」
「ん」
「……満足してる?」
「してない」
「いや、その…君がしたいことはわかるけど、今は夕飯をどうするかってことを話してたはずだよね?」
「ピザが食いたい」
「じゃあ、電話しよう? その前に、何を頼むか決めて」
「俺が決めて、電話しとく」
「わたしはどうすればいいの!?」
「寝てるんだろ? きっと」
「いーやーだー!」
ばたばたと抵抗されて。
彼女の腰に回していた手を叩かれて。抓られて。
その驚きと、痛さに、腕の力を緩めてしまった。
もちろん、彼女はそれを見逃してはくれなくて。
俺の上から絨毯の上へと、逃げ出して。
少し、怒りの色を宿した、蒼い瞳で俺を見上げる。
けど、その色は。
すぐに安堵のものに、変わったけれど。
「嫌なのか?」
「今は嫌」
「………」
「別にするのが嫌って言ってないんだからいいでしょ?」
確かにそうだけど、なんて思いながら。
立ち上がった彼女を見る。
手が伸ばされて。
当然のごとく、それを取れば。
彼女は俺の目の前へと、歩を進めて。
そして、キスをくれた。
触れて、すぐ離れるだけだったけれど。
とりあえず今は、これでいいか、なんて。
妥協してしまいたくなったのも、事実。
「好きだよ。愛してる。――なんて、言葉だけじゃダメなことはわかってるけど、まだ……その…」
語尾を濁した彼女に、眉根を寄せる。
すると、彼女は左腕のそこに、右手で触れた。
それで、彼女が明るい場所で抱かれることを拒んでいた理由を知る。
縫った…って、言ってたから。
その痕が今も、そこにはあるんだろう。
「ああ、傷か」
言い終えて。
気にすることなんてない。
そう思ったのと。
自分への戒めのために、見ておこうと思ったから。
彼女の手を退けて。
七分の、その袖を捲ろうと、手を動かしていく。
と、彼女が俺の手を止めた。
「玲?」
「綺麗じゃないから、見ない方がいい」
「………」
「消せるって、言ってたから、今度行った時に、頼んでくる。一週間ぐらいの入院で、平気みたいだったし」
「いい」
短く言葉を返せば。
意味がわからなかったのか、彼女は瞬きを繰り返す。
「消さなくていい」
聞き返す言葉はなくて。
代わりに。
彼女の眉は顰められた。
わずかに。
本当に、ほんの少しだけ。
そうして、口を開きかけて。
でも、言葉は紡がれないままで。
俺は彼女の身体を、抱き寄せる。
「消さなくていい。ここに…置いておいていい」
見られたくないなら。
その形だけも、知りたくて。
俺はそこへ、服の上から、口付けた。
「俺が間違えた、その罰なんだから。ここになければ、意味がないだろ?」
左腕を取って。
強く、唇を押し当てる。
そうしながら、言葉を紡いだ。
片手は彼女の左腕を取ったまま。
もう片手は、彼女を抱き込んだまま。
俺は瞼を下ろした。
彼女が負った、この傷は。
俺への罰。
もし、万が一にでも。
俺がまた、彼女を手放しそうになった時。
この傷を見て、思い出して。
そうして、離れることはできないのだと、思うために。
何なら。
彼女にこの傷を晒してほしいとさえ思った。
俺が離れていると、そう思わせてしまった。
その時に。
「そう…だね、これは残しとく。わたしへの戒めに」
「?」
「珪が、この傷を見るたびに顔を歪めて。その表情を見るたびに、わたしは胸を痛めて。バカなことを、前にやったんだって、そう、思い出すために」
「……ばかか?」
「その通りだもん。否定はしないよ」
笑いながら、彼女は俺を抱き締める。
彼女の胸に、顔を埋めるようにして。
おとなしく、俺は抱き締められて。
髪を梳いてくれた、その手に。
安堵の息を吐き出した。
望んでいた暖かさが、近くにある。
一度は、手放してしまった、暖かさが。
躊躇うことなく、手を伸ばして、触れられる。
手を伸ばされて、触れてくれる。
そんな距離に、ある。
「大丈夫だよ。もう、決めたから」
「…何を?」
「わたしは、わたしが笑えるようなことだけをし続けるって」
だって、わたしが笑っていれば、あなただって笑ってくれるでしょう?
耳元で問いかけられて。
確かにそうだと思った。
くすくすと笑う、その音に。
つられるようにして、笑みが浮かぶ。
そうしながら、抱き込んでいた、その力を強めた。
もう離さない。絶対に。
そんな想いを込めて。
強く、強く。
けれど。
「さて、電話しないと!」
言ったかと思ったら。
彼女はなぜか、するりと俺の腕の中から、抜け出して。
背を向けて。
電話のそばへと、歩いていった。
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