| 高校の時 何気ない会話の中
彼女が口にしたのは
俺じゃない 男の話
三原と須藤と
美術室で話し込んでいたら
遅くなってしまって
そんな中
聞こえてきたのは ピアノの音で
気になったから
五階まで駆け上がった
…とか
普段 怖そうなイメージだったから
あんなに柔らかく弾くとは思わなかった
だとか
その名前を聞く度に
俺は眉根を寄せていたけれど
そうしてしまう理由も
その時には
わからなかった
Bridge 〜 発信 〜
リビングの中央に立って。
ぐるりと一度、見渡す。
見慣れたものは、そこからなくなっていて。
それを確認してから、俺はそこから動いた。
病院へと迎えに行ったのは、午前中の、早い時間。
病室に行ったその時に、一番に彼女の笑みが送られて。
見せられたのは、左腕。
指先が少しだけ、動くようになった!
と、彼女は嬉しそうだった。
その、子供のような笑みに。
あの少女のことを思い出して。
俺も一緒に、笑っていたのだけれど。
彼女も『あき』も。
同じ人間なのだから当たり前だと、考え直した。
それから、簡単に診察があって。
その間に、俺は荷物をすべて、車へと運んでおいた。
病室へと向かうと、彼女は医者に、頭を下げていて。
その彼女の左手を、後ろから取ったら。
彼女は驚いて、振り返ってたけど。
俺の姿を見止めて、嬉しそうに笑ってた。
それから、ぶしつけな視線から逃れるように、彼女と共に、そこをあとにした。
俺が選んだのだから。
誰にも文句は言わせない。
そんな気持ちで、彼女を睨んでいたやつらを睨み返してから。
そうして乗り込んだ、車の中。
彼女はずっと、左手を気にしていた。
指先を動かして。
動かし続けて。
思い通りにならないことに、渋面を作ったりしながら。
思い出して、小さく笑う。
それから、目の前のドアを開けた。
直後、届けられたのは彼女の背中と。
大きなため息。
「ノックしようよ」
「…あ、悪い」
「もうー。感慨も何もないじゃん」
感慨ってどんな?
思いながら、振り返った彼女を見る。
頬を膨らませていたけれど、彼女はすぐに笑ってくれて。
そんな彼女の前に、俺は足を運んだ。
「氷室先生にお礼言いたい」
「そうか」
出された名前に、わずかに目を見開いたけれど。
彼女に他意はないのだと、すぐにそう答える。
そうすれば、彼女は頷いて、言葉を繋げていった。
「うん。それから、呆れないでね?」
「?」
「子供だからさ、わたし」
「玲」
「ん?」
「俺、はっきり言えば、まだ…答えは出てない」
「うん…」
頷いた彼女は、そのまま俯いてしまって。
それでも仕方がないかと、俺は言葉を探す。
悲しませたいわけではないから。
「でも、これだけは言える」
そう、思ったことを、飾らずに届けることにした。
顔を上げて、彼女は首を傾げて。
そんな彼女に、微笑む。
愛しさだけが沸き上がってくるのは、好きだからで。
触れたくて、仕方がなくて。
彼女の目の前にようやく辿り着いてから。
彼女の前髪をかき上げて、そこに唇を落とした。
「俺、今のおまえが一番好きだ」
「………」
「だから、おまえが嫌だって言うことは、したくない」
「………」
顔を上げれば、彼女はじっと、俺の顔を見て。
それから、顔を俯けてしまった。
だからなお、俺は言葉を紡いでいく。
「やっぱり、おまえがいい」
「紗枝さん、綺麗だったのに?」
「それでも」
「お似合いだったよ?」
「おまえに言われても嬉しくない」
「じゃあ、他の人だったら嬉しいんだ?」
「……嬉しくない」
「嘘吐き」
「だな」
答えて、二人で笑って。
それが消えた頃、彼女が時計を見上げた。
もう夕方になる、その時間を、俺も確認して。
彼女がまとめた荷物が入ったバッグを、手にする。
そうして、部屋を出て、彼女へと視線を向ければ。
彼女はまだ、部屋の中にいて。
一人で過ごしていたその時を、振り返っているようだった。
鍵を閉めて、引き抜いて。
一度、手の中で音を立てる。
そうした彼女を見ていれば。
顔を上げた彼女と、目が合った。
「行って、待っててくれる?」
「氷室?」
「そう。ちょっと話したいから」
「いるのか?」
「さっき電話したらいたけど?」
いつの間に?
そんな思いをそのまま、顔に出せば。
彼女はにわかに、慌てはじめる。
俺の知らない間に。
俺が彼女と離れていた、その間に。
氷室は彼女と、距離を縮めていた。
それがただ、悔しかった。
「でもあの、先生だし」
「今は何でもないだろ?」
「でも…えっと、中ちゃん先生がいるじゃん、氷室先生」
その言葉に、思い出した情景に、ああ…と思う。
氷室にはあの先生がいたな。
なんて。
でも気づいていないらしい、その表情まで、思い出して。
俺は「そうだな」と、言ってしまっていた。
鍵を預かって、エレベーターまで歩く。
彼女はこのまま、階段を使って、一つ上の階に行くから。
そこで一度、別れるわけだけれど。
彼女は小さく、手を振ってくれた。
「珪」
エレベーターの、その箱がやってきたことに、俺は視線を彼女から外したのだけれど。
名前を呼ばれたことに、瞳を戻す。
と同時に、エレベーターがやってきて。
ゆっくりと、その扉を開けた。
「先に行っちゃわないでよ?」
「さあな」
「行かないでよ?」
怒ったふりをして、彼女はそう言ったけれど。
俺はただ、小さく手を挙げただけに留める。
そうしながら、箱の中へと歩を進めた。
ドアを閉めて、下へと降りて。
彼女が俺のそばへと戻ってくるというそれを。
再確認する。
あの部屋を引き払ってしまったら。
この鍵を、俺が管理人に渡してしまったら。
彼女は俺が家主の、あの家に来ざるを得なくなる。
そしてそれを、彼女自身が望んでくれたことが。
嬉しくて、仕方がなくて。
一階に着いた、それを知らせた箱の中から、俺は一歩を踏み出した。
一つの鍵。
それを、手の中で一度だけ、音を立ててから。
その鍵を、キーホルダーから取り去る。
自動で開いた扉をくぐって。
管理人室に向かって。
そのそばを掃除していた管理人を見た。
これを渡してしまえば。
彼女はもう、俺のそばから、いなくなることはないだろうか?
そう、考えたけれど。
でも、彼女の世界は開けているから。
いなくなってしまう可能性も、なくはない。
それでも。
『今』という、その一瞬のような。
長くて短い間だけだとしても。
彼女がそばにいてくれるなら、俺はかまわなかったから。
「すいません」
そう、声をかけて。
事情を話して――手の中の鍵を、手渡した。
急なことに、本当にすいません、と何度も言って。
頭を下げる。
管理人は、そんな俺に。
ただ、笑みを浮かべて。
「いいことなんでしょ? だったら謝らないの!」
と、言い続けていた。
俺のことは知らないみたいだったけど。
だからこそ、そう言ってもらえるのだと、そう思えた。
もう一度、小さく頭を下げて、車へと歩いていく。
辿り着いて、車に荷物を載せて。
俺はその車に背を寄りかからせた状態で、彼女を待っていた。
いいこと…なんだよな?
確認のように、そう呟いて。
俺にとってはいいことなのだと、答えを出す。
俺のそばに、ずっといてほしいとは思う。
思うから。
たとえば、俺しか知らない場所に、彼女を閉じ込めたとして。
それは……いいことなんだろうか?
彼女は俺と、その場所のこと以外は何も知らずにいて。
俺は、きっと。
彼女に、俺以外のことに興味を持ってほしくないだろうから。
何も…教えないだろうと思う。
そうしたらきっと。
彼女は今のままを保ってはいないだろう。
それでも。
それは……いいことだと、言えるんだろうか?
考えて、考えて。
「珪?」
名前を呼ばれて、思考を現実へと向けた瞬間。
視界いっぱいに広がっていた彼女の顔に、俺は大きく驚いてしまった。
彼女は笑って、「帰ろう?」なんて言ってくれて。
俺は運転席へと、身を滑り込ませた。
助手席へと座った彼女は、シートベルトを締めて。
俺を見る。
「何、考えてたの?」
「…玲に聞きたいことがある。俺」
「何?」
ハンドルの上に、両腕を置いて。
そうして、背中を丸めて、彼女を見れば。
彼女も背中を丸めて、俺と目線を合わせてくれた。
「もし……、このまま。俺がおまえを、俺しか知らない場所に連れていったら、どうする?」
「嬉しいよ? 珪しか知らないんだもん。秘密を分けてくれるってことでしょ?」
「そうか」
「そうだよ」
「じゃあそこに、おまえを置いていったらどうする?」
「…珪は?」
「俺もいる。鍵を持ってるのは、俺だけ。手枷と足枷を、おまえに付けて。そうしたら、どうする?」
「……閉じ込められちゃうの?」
「ああ」
「………」
ぱちぱちと瞬きを繰り返して。
それから、彼女は。
ふふっと笑う。
それに、俺は驚いてた。
笑った理由が、わからなかったから。
「玲?」
「別に、そうしてくれてもいいよ?」
答えを促すつもりで名前を呼べば。
彼女はそう、簡単に言い放つ。
「? いい…のか?」
「うん。いいよ?」
「………」
「広い世界で生きていくのには、たくさんの人の力が必要だけど。極々狭い世界で生きていくんだったら、珪一人の力で、充分だと思う」
「………」
「閉じ込めるんなら、そうしてくれていいよ?
珪が来なくなったら、わたしは壊れちゃうかもしれないけど。というより、生きていけなくなっちゃうけど。そういった嫌なこと――珪が来なくなった理由さえ、わからないまま。知らされないままなら…、死んでしまっても、いいと思う」
「玲……」
「だってそれこそ、『あなたがいなきゃ、わたし死んじゃう』って、シチュエーションでしょ?
そういうのも、君ならありなんじゃない?」
くすくすと笑って。
彼女は背もたれに、身体を預ける。
「それに。珪がいれば、それでいいよ」
言い切った彼女に、目を細めた。
照れもなく、彼女は言い切ったのだから。
それはつまり、本心ということ。
心の底から、思っているということなんだろうから。
手を伸ばして、彼女の頬に触れる。
まだ、シートベルトを締めていなかったから。
俺の行動を制限するものは、何もなくて。
瞳を向けた彼女と、唇を重ねた。
ただ、触れるだけのものだったけれど。
「…急にはびっくりするから、ダメです」
小さく呟かれた言葉に。
俺は小さく笑う。
そうしてから、深く深く、口付けた。
|