二人でいるのに
時計を見るのが 癖になった

時間だと騒ぐのは 彼女の役目だったのに

それよりも前に 席を立つのが

癖に…なった




Bridge 〜 予期 〜





言葉を聞いて、眉根を寄せた。
いつものように、その言葉を口にしそうになって。
それでも、やっぱりやめた。
彼女の表情は変わらない。
本気で……そう思っているのかどうかも、わからない。
肩を落として、息を吐いて。
彼女から、視線を逸らす。
だめ…なのかもしれない。
これまでの生活を思い出して、そう思う。
一線を超えたはずなのに。
彼女の心は、まだ見えない部分が多くて。
俺はいつも、どんな態度を取ればいいのかを、考え続けてた。
だから、そういう部分を、彼女が感じ取っていたとしたら。
視線を向ける。
彼女は俺をずっと見てくれていて。
「……ああ、そうだな」
絞り出すように、放った言葉。
それが彼女の願いならと。
俺が、彼女を縛り続けているのならと。
そうやって、出した答えに。
彼女は淋しそうに、微笑んだ。
「それじゃ、今から君とは、仕事上の関係だけね」
耳に届いた言葉に、俺は動けなくなる。
わかっていたことなのに。
知っていたはずなのに。
これが嫌で、あの言葉を発していたはずなのに。
いすから腰を上げた彼女は、俺の姿を見ずに、荷物を手にして。
たった一つの、扉へと向かう。
俺をこの部屋に残して、彼女は出ていってしまう。
ここで捉まえなければ、もうきっと。
取り戻すことなどできないと――頭の中で、警鐘が鳴り響いているのに。
俺はまだ、動くことすら、許されていないようで。
俺は彼女から、瞳を背けた。
「家の荷物は、今日中に移動するから」
「………」
「バイバイ、葉月くん」
「!」
思い切りよく上げた瞳に映った彼女は。
微笑って…いて。
それでも、どこか、やっぱり……淋しげで。
向けられた背と。
用意されていたかのように変わってしまった、俺自身への呼び名に。
かける言葉も、見つからなかった。

ぱたんと軽い音を発して閉まってしまった扉に、俺は大きく、項垂れる。
わかっていたこと。
知っていたこと。
まだ、この部屋を出れば、彼女には追いつける。
わかっているのに。
知って…いるのに。
俺の足は、動こうとはしない。
というより。
追いかけることを、思考が拒否している。
そのことに、俺は拳を、壁に叩き付けた。
手に広がる痛みに、自分がしてしまったことを知る。
戻されてしまった呼び名に、失くしてしまったものを知った。
だからと言って、時間は戻せない。
ここでもし、彼女を取り戻せたとしても、きっと。
きっと。
彼女に対する俺の態度は、変わらない。
だとすれば。
彼女がまた、あの言葉を口にするのは、必至で。
「………」
俺はただ、唇を噛み締めていた。




小さな期待は、裏切られる。
知っていたにもかかわらず、俺は玄関の扉を開けたそこで、止まっていた。
ただいまと声をかけても。
真っ暗なこの中から、「おかえり」の声は、返らない。
『今、夕飯作ってるから。荷物、置いてきなよ』
思い出して、視線を俯けた。
俺の名前を呼んでくれる声も。
暖かな時間も、この中には存在しない。
わかっているのに、どうしようもなくて。
俺は家の中へと、一歩を踏み出した。
彼女に再会する前に戻ってしまったような、そんな、既視感。
いや、それは……既視感でも何でもなくて。
その通りなのだと、知っている。
バタンと、扉が閉まる。
真っ暗なそこを見渡すまでもなく、ただ前をだけを見つめながら、手探りで明かりを灯した。
笑顔はない。
涙を流すことも。
それさえも。
自分には、許されてはいない。
「…クソッ」
小さく漏れた言葉は、俺の本心なのに。
それを、どうすることもできないままで。
俺は靴を脱いで、その中へと、歩を進めていった。

リビングの明かりを点けて。
光を反射したものに、俺はまた、行動を止めた。
これでさえ、わかっていたこと。
テーブルの中央。
書き置きも、何もなく。
それはそこに、置かれていた。
所在無さげに、ぽつんと。
そこに。
近寄って、目を細めて。
手に取っても、温もりも、何もなくて。
視線を上げて、部屋の中を見渡して。
棚の上や、窓際に。
それらがないことに、気づいた。
彼女が持ってきた。
ここに彼女が住みはじめてから買ってきていた、小物。
だからきっと、この家には。
彼女のものは、どこにもなくて。
彼女の色は、どこにもなくて。
ソファに腰かけてから、俺は床へと視線を落とす。
両手を握り締めて。
きつくきつく、握り締めて。
俺は、彼女に何を言ってほしかったのだろうと、考えた。
わかっていたはずで。
俺がああ言ったら、彼女はそれには逆らわないと、そう…わかっていたはずで。
彼女の声は、真実味を含んでいて。
言葉は、悲しみを帯びていて。
冗談という言葉では、なかったことにはできなかった…はずで。
そう、わかっていた。
わかっていたのに。
にもかかわらず。
俺は彼女の言葉に、逆らえなかった。
彼女がここにいないという事実が、俺の上に、重く――圧しかかって。
何もする気になれずに、俺はそこで、時計の針が立てる音を、聞き続けていた。





無言のまま、目の前の人は、ただ、悲しんでくれていて。
俺はもう、壊れてしまったかのように、すみませんと、言葉を綴り続ける。
彼女との再会の機会を与えてくれたのに。
こんなことになって、すみませんと。
本気で、そう思っていたから。
「いや、いいんだけど。そういうことは、本人達の問題だしね」
発して、諸岡さんは。
それでも大きく、ため息を零していた。
何がいけなかったんだろうね?
問いには、答えを返せなくて。
俺はただ、じっと。
組んだ手の、その向こうを見つめることしか、できなくて。
何が悪かったのかと聞かれたら。
それはきっと、すべてで。
この頃は…。
彼女といるのが、嫌ではなくて。
けれど、息苦しかった。
彼女の心が、俺にはわからなくて。
俺の言ったことに、時々脅えたような表情になっている、その理由が…わからなくて。
けれどすぐに、笑みでかき消して。
それでも。
彼女がその時に言っている言葉は、本心ではないと、それだけはわかっていたから。
わかって、いたのに。
その理由を聞き出すことが、できなかった。
なぜか、それだけは、躊躇われた。
……いや、理由は――理由でさえも、俺は知っている。
彼女がなぜ、脅えていたのかも。
俺は知っているし、わかっている。
けれど…聞くことはできなくて。
彼女の不安を取り除くことさえも、できなかった。
それに、彼女も聞くことはしなかった。
もしかしたら、それを聞いてほしかったのかもしれない。
変に、彼女が遠慮をしはじめたのは、きっと、今年に入ってから。
その前から、彼女らしくない行動は、多々あったけれど。
「とにかく、わかりました。今日、AKIRAちゃん、藤井さんと打ち合わせのはずだから。藤井さんにでも、新しい連絡先は聞いておくよ」
「…すみません」
「いいって」
頭を下げた俺に、諸岡さんの言葉が降る。
もう、どんな言葉を投げてもらっても。
与えられたとしても。
きっと。
この胸の痛みは、消えることはないと思う。
彼女のことを、想い続けている限り。
彼女のことを、好きでいる限り。
全身が、キリキリと痛む。
気のせいでしかないのかもしれないけれど。
それでも。
鼓動を刻む度に、全身が痛みを発して。
本当に、どうにかなりそうだった。


たった一人で、道を歩く。
視線を向けられているのはわかるけれど、相手にする気は、起きなかった。
このまま歩き続ければ、自分はどこに行くのかは、わかっているのに。
どこに行けばいいのかは、わからない。
何をしたらいいのかさえも、わからない。
下手な慰めを望んではいないから。
わずかな友人達と馴れ合うことも、したくはなかった。
ただ、何をしたいかは、はっきりしていて。
けれど、そうしていいのかも、まだ…わからなくて。
俺はひとりだと、そう…思う。
彼女がいなくなってから、ぽっかりと、身体のどこかに穴が空いたようで。
きっとそれは、最初から空いていたものだろうとは思うけれど。
彼女が補ってくれていた部分でしか、なくて。
「………」
自分が求めているものも。
ほしいと願っているものも。
わかっているのに。
それが、見えているのに。
手を伸ばしても、それは届かないところにあるようで。
周りは、暗闇で。
そこに、たったひとりで、立たされているように、思えたりもして。
一緒に歩いてくれる人も、いなくて。
こっちだと、道を示してくれる人も、いなくて。
どうすればいいのかも、わからない。
そんな状況に……あるようで。
深く息を吐き出して、俺はただ、歩を進め続ける。
どうすればいいのかなんて、わからない。
それでも、彼女には会いたくて、どうしようもなくて。
口を開けば、彼女の名前を、綴りそうで、怖くて。
言ったとしても、応えてくれる声なんか、あるはずはないのに。
ただ悔やむのは、俺がしてしまったこと。
し続けてきてしまったこと。
それを、いくら懺悔したとしても、許してくれる相手も、いはしないのに。
望むのは、もう一度。
彼女をこの腕に抱くこと。
その資格が、ただただ、ほしくて。
強く強く、願っていて。
人が途切れた場所で、俺はわずかに、涙を零していた。

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