| それ一枚隔てた向こう 決して開かれることのなかった
その向こう
彼女がいるのか
いないのかは
俺にはすぐにわかってた
けど
彼女が入ってこないから
その理由だけで 俺は動かずにいて
仕事が忙しいとか
気づかなかったとか
いろいろ――理由を並べ立てるのに
本当の理由は ただそれだけで
そして
彼女が聞いてこないから
その理由だけで
そうやって 用意してた言葉も
外に出すことは なかった
でも 本当は
彼女が俺を求めているという
そのことが
間接的にでも わかったから
嬉しくて 仕方がなかった
けど それに気づいたのは
そう思っていたことに
気づいたのは
少しだけ……遅かった
Bridge 〜 許容 〜
チャイムを押して。
応答がなかったから。
俺は小さく、息を吐いた。
いることは、わかっている。
彼女のスケジュールは、あんなことが起こる前から、把握していたし。
それに、あんなことをしてしまったのだから。
出かける気になんて、ならないだろうと思う。
昨日、送っていってくれたスタッフに聞いても。
何も言わなかったし、何もしなかったと言っていた。
脱力し切っていて。
心配だとさえ。
だから、家にいるだろうことは、明確なのだけれど。
開かれない扉を見て、もう一度、息を吐いた。
許してもらおうとは、思っていない。
それでも、言わなければならなくて。
どちらにしても、彼女を傷つけてしまったなら。
しまうなら。
そのあとに。
少しでも早く、癒されることを願うから。
そして、そのあと。
少しでも早く、前を向いて、歩き出してほしいから。
彼女の話を聞いて。
俺の話を、聞いてほしかった。
……けれど。
この目の前の扉は、開かれなくて。
「…葉月?」
どうしようかと考えているその時に、声はかけられる。
顔を上げれば、そこには見慣れない人物がいて。
俺は眉根を寄せた。
「あんた…誰だ?」
「あのね……」
身長の高い、その人は。
俺の問いに、そう呆れたような声を出して。
それから、答えをくれる。
「紗枝が所属してる事務所の社長なんだけど?
私」
そんな風に。
「………」
「噂通りね。葉月珪。自分に直接は関係ないと思ったなら、とことん、興味を持たない」
「……それが?」
「普通は知ってるものよ? ライバル事務所の社長ぐらいは」
「……知らない」
「興味ないんでしょ? 恋人の事務所なのに」
「俺が付き合ってたのは、モデルじゃないから」
「…過去形?」
「………」
いたずらっぽい笑みと共に言われて、俺は黙る。
過去形…に、なるんだろうと思う。
俺はもう、決めてしまったから。
「あんなことをした女とは、もう付き合えない?」
「そういう、わけじゃない」
「じゃあ、元恋人が、恋しくなった?」
「…そういうことに…なるんだろうな」
「………」
小さくため息を吐いて、その人は近づいてくる。
俺を退けるようにして、扉の前に立って。
「来週。仕事よね? 葉月も」
「…あの…プロジェクトの……?」
「それには出すわ。その時に話しなさい。ちゃんと元には戻しておくから」
「………」
「紗枝はいつも、あんたの話ばっかりしてた。仕事の話が来た時、私よりも、誰よりも先に、やりたいって声を上げてた。だからね、紗枝に任せたのよ」
「………」
「紗枝はいっつも、仕事には消極的で。やりたいなんて、自分から言う子じゃなかった。それも…あったんだけどね」
扉を見上げるように見て、その人はしゃべって。
それから、鍵の束を手にして。
その中から、一つを探し出してた。
「田端さんにも、会いたがってたのよ、あの子。あなたたちが別れる前から」
「…え?」
見つけたのか、それを手にして、俺を見る。
俺は、放たれた一言に、驚いていて。
「理想だって、言ってたのよ? だから、別れたって聞いて。その理由を聞いてみたいって。そのために、この仕事をやり遂げたいって」
「………」
「ちゃんと話しなさい。紗枝と付き合った理由も、あわせて」
「…わかった」
「じゃ、今日は帰って。来週まで、あの子に時間をあげて」
言いながら、目の前の人は鍵を開けて。
扉の向こうへと、消えていった。
バタンと音を立てて、扉は閉まる。
俺のことを、拒絶するみたいに。
それは思い込み過ぎかもしれないけれど。
けれど、今は。
この扉を開けることは、俺には許されていないから。
仕方なく、俺は足を踏み出して。
会って話せる、その日を。
その…時間を。
おとなしく、待つことにした。
根本的なものが抜け落ちていたんだと。
今更ながらに、気が付いて。
俺はただ、暗闇の中を流れ続ける水を見る。
その中を流れる、あのカプセルが。
愛や夢の、抜け殻だと言うのなら。
この川はいったい、何なのかと。
「ロープ、ない」
川の縁に張られていたロープがなくなったせいで。
少女の歩みは、遅くなった。
周りでさえも、見えないから。
少女は恐る恐る、足を踏み出して。
足場があることを確認しながら、進む。
それでなくとも、傷の多い少女を思えば。
身体を支えることのできない、この状況は。
本当に、心配でしか、なくて。
その少女の名前ですら。
俺はまだ、知らない。
「歩くの、怖いか?」
「…こわい……かな?」
素直な返答に、笑みを零して。
足を止めた。
聞きたいことはたくさんで。
何から聞こうかと、考えたけれど。
とりあえず、その場に腰を下ろした。
少女はどうしようかと考えていたのか。
向こう側から、物音はしなかったけれど。
土を蹴ったのか、その音が、何度か聞こえてきて。
少し乱暴に、その場に座ったらしかった。
その音を聞いて、俺は口を開く。
「聞いていいか?」
そんな風に。
それに、許された、その言葉が届けられて。
俺はゆっくりと、その問いを、口にした。
「ここには、何かを失くした人間がくるんだよな?」
「うん。そう」
「おまえは…何を失くしたんだ?」
「………」
答えが返らなくて。
俺は少しだけ、待ってみる。
足を滑らせたのか、ジャリッというその音が響いて。
「あのね?」
そんな言葉で、少女は話しはじめた。
「わたしは…いらないっていわれたの」
「…誰に?」
「………」
「………」
「いらないっていわれて。でもいつか、むかえにくるからって。だからここにいるの」
「……誰が、そう言ったんだ?」
「………」
「……?」
「…しんじてるの。でも、それこそいらないものだって、いってたの」
「………」
誰がそれをしたのかを聞いてはいけないのだと。
答えられないところから、そう察して。
俺は口を噤む。
「まってるの。いらないっていわれたけど。きっとって」
迎えには来ないと、わかっていて。
それでも、信じているがゆえに、その考えを払拭し続けてるんだろう。
それに、短く息を吐き出して。
瞳に映ったものに、目を細めた。
少女は元々――捨てられたもの。
この、カプセルと同じものだったのかも、しれなくて。
それが形を、意志を持っただけなのかも、しれなくて。
少女をここに置いていった人物は。
少女の言う、信じる心を。
失ったのではなくて、捨てたから。
だから少女は、ここにいられているのかもしれない。
失ったのなら、また、べつのものを探そうとか、思うけれど。
捨てたのなら、また、それを取り戻そうと思うことが、できるから。
少女を取り戻そうと、そう思える時がきっと、来るだろうから。
少女はここに、この暗闇の中に、いるのかもしれなくて。
そうなると、ここは。
ここに来ている俺は。
いったい、何なんだろう?
「みんな、つぎのものをさがすために、いなくなっていくの。もどるね、って、かえっていっちゃうの。だれも、かわのなかにはいって、じぶんのものをさがそうとはしないの。うしなったものを、また……なんて、かんがえてないの」
「それでも…この川は、あるんだな」
「うん。かわはあって。ながれていくの」
矛盾…なんて。
思い出したのは、その言葉。
『無駄』ではなくて。
『矛盾』。
「みえないから、そういうのかな?」
だとしても、この川はなくてもいい。
「それとももう、ほんとうにいらないの?」
そんなはずはない…と、思う。
失くしたことを。
失くしてしまったことを。
人々は深く、後悔するのだから。
信じることを忘れてしまうのは。
やめてしまうのは。
とても簡単だけれど、難しいことで。
そして…それをしてしまったあとは。
苦しくて、どうしようも、なくなるのに。
少女を置いていった人物は、今も平気で、過ごしているのだろうか?
「もどってくるひとはいるよ? でもまた、かえっていっちゃうの。かわのなかになんて、はいらないで」
だったら、ここにいる俺もまた。
新しいものを探すために、戻らなくてはいけないのかもしれなくて。
でも俺は。
許されるのならば、この川の中に入って。
俺が失ってしまったものを、探し出したくて。
仕方が――なくて。
「それでも、おまえを置いていったやつは、戻ってこないんだな?」
「………」
答えが返ったのは、ずいぶん、時間がかかってから。
うん、と小さく。
短く。
許されるのなら。
少女を置いていった人物に会って。
まだ待っているという、そのことを伝えたいと思った。
それよりも、もっと。
許されるのなら。
少女を連れて、戻りたいとさえ。
「いらないって、いってたから」
「もうやめるって」
「しんじるの、やめるって」
「しんじてるの、つらいし、こわいから」
「うらぎられるってわかってるのに。なのに、しんじてなんて、いられないって」
「しんじて。そのすえに、うらぎられて。きずつきたくないって」
「だから、ここにおいていくねって」
「しんじさせてくれるひとがあらわれたら、むかえにくるからって、いってた」
言葉を聞いて。
込み上げたのは、悲しさ。
そして、勝手だな、という、それ。
「追いかけたかったか?」
「うん…」
けれど、そうしなかった理由は。
『いい子』で…いたかったから。
ここにいろと言われたから、少女はここにいた。
本当は追いかけてしまいたかったのに。
困らせたくはなかったから。
したいことを、押し込めて。
少女はここに、い続けた。
――結果。
少女は酷く、傷ついて。
世界は闇に、閉ざされて。
少女はひとりで、そばを通り過ぎていく人を。
人たちを。
眺め続けた。
「おにいちゃんはひかりなんだとおもうの」
「光?」
「ひかり。まっくらになっちゃってから、なくなっちゃったもの」
「………」
「ひかりをさがしてくるって、いってたから」
「……?」
「えいえんを、みつけてくるって。みえるかどうかは、わからないけどって」
「……っ」
誰が? と、口にしそうになって。
俺は慌てて、手で口を覆う。
少女が言っているのは、少女を置いていった人物以外、ほかにはいない。
そんなこと、わかっていたのに。
「ひかり、ここにあるよって、おしえられたら。もどってくるかな?」
「…かもな」
「おにいちゃん、えいえん、しってる?」
「知ってる。けど……」
失くしてしまったから。
彼女となら、それを信じられたのに。
信じていたことさえ、忘れてしまっていた。
それを今更、思い出しても……、仕方がないのに。
考えて、ゆっくりと瞼を閉じる。
俺はその時、彼女のことを思い出していたから。
少女が呟いた声は、耳に入ってはこなかった。
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