| 月を見上げて 息を吐いて そのあと
嬉しそうな表情を浮かべる
満月でも
半月でも
三日月でも
彼女は笑う
月のない日は 空を見上げて
きょろきょろして
曇り空で 星もない日は
朧月で 渋面を作る
それも見えなければ
早々に空から 瞳を外す
声もなく 彼女は空を見上げて
月の淡い光を受けて
短く名前だけを発した俺に
彼女は急いで 振り返って
「忘れてた」
綴られた言葉に
俺は驚いてた
Bridge 〜 主情 〜
やってきた救急車に、彼女を乗せて。
藤井も一緒に、乗り込んだ。
紗枝のことは。
気にはなったけれど、スタッフに任せて。
尽を乗せて、俺は病院へと車を走らせた。
もちろん、他言無用と、その場にいた全員に言って。
口止めして。
車内では、二人とも、無言だった。
できれば。
できることなら。
俺も、彼女と一緒に行きたかったのだけれど。
そんなにたくさんの人間が乗っていくわけには行かなかったから。
それに。
俺が運転すれば、尽も病院へ行くことができたから。
俺はただ、ハンドルを握り続けてた。
そうやって、走らせて。
病院へ着いたのは、二十分後。
駐車場へと車を停めて。
中へと入って。
近くにいた看護婦を捕まえて、彼女のことを聞き出したのは、尽で。
走ってはいけないとわかっていながら、小走りでその場所へと進んだ。
焦りで、足がもつれたりもしながら。
俺たちはそこへと、辿り着く。
「奈津実さん!」
尽が声をかけて。
藤井は口元へと、立てた人差し指を当てた。
それに、尽はさっと顔色を変えて。
口を片手で覆ってから。
「スイマセン……」
そう、零す。
そんな尽を横目で見てから、俺は藤井に、焦点を合わせた。
「それで?」
「今、手術中。傷口だけは塞がなきゃならないから、縫うって」
最後の単語に、眉根を寄せる。
俺への罰が。
彼女に傷口を残す。
残してしまう。
痛みを受けさせる、だけじゃなく。
その光景を、見せるだけでは……飽き足らず。
どうして彼女に? とは思うけれど。
きっと、わかっているんだろうと思う。
俺自身へのものでは、本当の罰にならないから。
考えて、視線を伏せた。
だけじゃなく、瞼も下ろす。
確かに、俺はもっと早くに答えを出すべきだったと、後悔していて。
俺はぎゅっと、拳を作った。
そんな中、静かに言葉は紡がれ続けて。
「そのあと、少し入院させるって。栄養失調も、ちょっとあるみたいだからって」
「栄養失調? 姉ちゃん、食事……」
「一ヶ月ぐらい前…食事してないって言ってた」
「え?」
「やっぱそうだったんだ。アタシが玲の家に行く途中、アンタに会った日、あったじゃない?
その時に、ほとんどの食材買ってたのよ。だから、おかしいなって思ってたんだけど……」
「でも、知り合いからレシピもらったって言ってたから……、てっきり、食べてるかと思ってた」
「……姉ちゃん、したくないことは絶対にしないから…。誰かに迷惑を掛けないなら」
「掛けてんじゃない。思いっきり」
「でも、わからなかった。こんなことがあったから、俺たちは知ることが出来ただけで……。だから、一人暮らし、させたくなかったんだ。前の時は、麻衣姉も一緒だったから、安心してたんだけど」
「………」
「前から、あったんだ?」
「あった。麻衣姉が、短大卒業するまでの間に、一回」
三日間ぐらい、飲み物しか口にしなかった時が。
放って、尽はそこにあったいすに腰かける。
膝に肘を突いて。
手を組んで。
「姉ちゃん、部屋にお菓子とか…そういうの、置いてたし。外にも出てたから。ちゃんと食べてるんだと思ってた。でも、貧血起こして。倒れて。その時に、『何にも食べてなかったからかなー?』って、ぼやいてて」
「理由は?」
「食べなかった?」
「そう」
「…バランスが……崩れたんだと、思う」
「?」
意味がわからなくて、顔を上げる。
と、尽はじっと、廊下を見つめていて。
藤井も、俺と同じように、尽を見てた。
「その時の姉ちゃんには。麻衣姉しか――頼る人がいなかったんだと思う。でも、麻衣姉は、大学で忙しくて。そう簡単には、会えなくて。だから、誰にも、考えてることとか、抱えてることとか、言えなくて。麻衣姉に会いたいって思っても、わがままぶつけるわけにはいかないから…そう、言えなくて。心の方にばっかり、負担が掛かっちゃったんじゃないかな?
で…多分。身体にも負担、掛けようと思ったんじゃないかって、思う」
「そうする理由がどこにあるのよ?」
「心と身体と。両方一遍にしか…治せないから、だろ?」
俺が口を開けば。
藤井はそれ以上、何も言わなくて。
尽は小さく、息を吐いていた。
「姉ちゃん、自分のことには不器用だからさ。ひとりになると、どうしようもなくなるんだと思う。多分本人は、ただ食べたくなかったからって、言うと思うよ」
理由には気づかないで。
本当に、自分がしたかったことには、気づかないで。
気づかないままで。
そうしたくなかったから、しなかったと。
裏側にある、真実までは、きっと。
彼女自身も、見えていなかったのかもしれなくて。
「姉ちゃん…笑ってた」
「?」
「いつ?」
「刺される直前」
「………」
「死にたかったのかな? 俺、まだ……姉ちゃんに何も言ってないし、してないのに」
言葉を紡ぎながら、尽は顔を伏せて。
藤井が、その隣りへと腰を下ろした。
背中をさすって、頭を優しく叩いて。
俺は、それを見ていられなくて。
俺と彼女とを隔てる扉を、見ていた。
『手術中』の、その文字。
それが消える時を、今か今かと、待ちながら。
俺への罰に、これ以上。
彼女が巻き込まれないようにと、祈るほかは、俺にはできなくて。
小さく小さく。
彼女の名を、一度だけ、呼んだ。
手術は順調に終わって。
医者からは、簡単に。
命には別状がないことと、今日はこのまま、目は覚めないだろうことが告げられた。
だから、藤井も尽も、帰ることに決めて。
俺も、そうすることにした。
明日には、彼女に会えるかもしれない。
けれど、俺にはまだ、しなければならないことがあるから。
「葉月! 送っていってよ」
「あ、俺も」
「…ああ」
言われたことに、肯定の言葉を紡いで。
俺は二人の背中を追いながら、歩く。
「明日、アタシ休みだから。様子見に来るよ」
「頼みます。俺、ずーっと休みないから」
「大変だね」
「売り出し中のモデルって、そんなもんなんだって。マネージャーに文句言ったら、そう言われたから」
「そっかぁ。ガンバレ、新人」
通り過ぎていく中で聞こえる会話に、俺はふぅと、息を吐いた。
彼女のことは、もう大丈夫だから。
そう、思っているから、二人の会話は、明るいものになっていて。
声も、それに見合うものになっていて。
そのことは…べつにいいのだけれど。
病院を出て、一度だけ、振り返る。
彼女がまだ、ここに存在してくれていることが、嬉しくて。
それでも、繋ぎ止めておくために、俺がしなくてはならないことも、わかっていて。
俺はゆっくりと、二人が待つそこへと、足を進めた。
眠れるかどうか不安だったけれど。
眠りは、きちんと訪れて。
瞼を上げたその時に見えたのは。
闇、だけだった。
上を見上げて、息を吐く。
広がるのは闇ばかりで。
それでも見える、自分自身に。
久しぶりに、少女に会えると。
小さく笑みを浮かべた。
――のに。
物音は、一つとしなくて。
俺は振り返る。
いつの間にか、川はなくて。
離れてしまった、そのことを知った。
耳を澄ませて、川のある方向を定めようとするけれど。
それでさえも、聞こえなくて。
俺はとりあえず、一歩を踏み出す。
本当は。
少女の名を呼んで。
答えてくれた、その声で、どっちなのかを知りたかったのだけれど。
俺は、その。
紡ぐべき名前を、知らなかった。
闇の中を、一人で歩いていく。
ゆっくりだった歩みは。
知らないうちに、早くなって。
川の、その音が聞こえた時には、俺の息は上がっていた。
自分のその、息遣いを聞きながら、川の向こうへと視線を投げる。
呼びかけようにも、何を言えばいいのか、わからなくて。
少女が、そこにいるのかどうかも、わからなくて。
俺は、見えないのをわかっていながら、視線を巡らせた。
その時。
「あ! おにいちゃん!」
走ってくるような、その足音が聞こえて。
俺はそちらへと、瞳を向ける。
ほとんど目の前から、ギシッと軋む音が届けられて。
俺はほっと、息を吐いた。
「どこいってたの?」
「…さぁ?」
「……?」
「俺も…よく、わからない」
言えば、くすくすと笑み。
それから。
「きゅうにいなくなっちゃうから、びっくりした」
そう、言葉が紡がれた。
「そうか」
「うん」
「橋…あったか?」
「ううん。あったらそっちにいってるよ」
「そう…だな」
「うん」
行くか、と声をかければ、足音が立つ。
見えない、あるかどうかわからない橋を求めて、歩き出して。
それでも、あると信じて、歩いていく。
少女を見捨てることができない自分が、ここにいて。
ここには、いて。
少女の心を救えるとも思えないけれど。
どうにかしてやりたいと願っているのは、事実で。
「あれ?」
響いた声に、俺は視線を巡らせて。
少女がいるのだろう場所に、固定したあとで、足を止めた。
「どうした?」
「ロープ…、なくなっちゃった」
「………」
「でも、はし…、ないよね?」
「ないな」
足元を見ても、見えるのは川の流ればっかりで。
俺は一つ、息を吐く。
同時に、向こうからもため息が聞こえて。
「はし、ないね」
小さく呟かれた声に。
苦笑を零すしか、なかった。
昨日走った道を逆行するように、車を走らせて。
病院へと、辿り着いた俺に。
纏わりついたのは、多くの視線で。
俺はそれを振り切るように、彼女の病室を目指していた。
目を覚ましているかどうかなんて、わからないけれど。
だからこそ、扉を叩かずに、少しの間、中を伺って。
物音がないことに、音を立てないように気を使いながら、扉を開けた。
真っ白い部屋の中。
色彩を持って、彼女はその中で、眠りに落ちていて。
扉を閉めて、彼女のかたわらへと、進む。
前髪をかき上げて。
髪を撫でて。
その寝顔に、安堵の息を漏らした。
真っ青だった顔には、赤味が差していて。
我慢ならなくて、俺は額に一つ、唇を落とす。
瞬間。
ほんのわずかに寄せられた眉に、彼女の名を、呟いて。
置かれていた水差しを手にして、病室を出た。
擦れ違う看護婦の視線を無視して。
売店へ向かう。
そこで買ったミネラルウォーターを手にして。
病室近くの、流しを使って、水差しを簡単に洗った。
その二つを手にして、病室へと戻る。
羨望とか、期待とか。
そう言った眼差しや、声は。
俺には必要ないものでしかなくて。
それらを断ち切るように、静かに扉を開けた。
そこで。
俺はしばし、立ち止まって。
それから眉根を寄せる。
彼女のこめかみを伝っていった涙に。
「…玲?」
小さく呼びかけても、答えはなくて。
持っていたものをベッド脇の棚の上に置いて。
俺はそこへと、手を伸ばした。
涙を拭って。
その濡れた指を、唇に押し当てる。
こんなにも、彼女が大事で。
大切で。
愛しくて。
わかっていたのに、それを理解せずに、俺は迷ってばかりで。
『あき』は彼女で。
幼い頃の、彼女で。
彼女でしか、なくて。
それに似ていた紗枝は。
ただただ、代わりでしかなくて。
「ごめんな…?」
それだけを呟いて。
彼女をずっと、見ていた。
いすに腰かけて。
ベッドの端に、腕を畳んで置いて。
彼女の顔を、ずっと。ずっと。
そうしていると、小さな音を立てて、扉が開かれた。
振り返ると、そこには驚いたような表情があって。
「有沢…?」
「……びっくりした。誰もいないと思ってたから…」
ほぅ…と、一つ息を吐いて。
有沢は抱えていた花束を、棚へと置く。
花瓶も、そばへと置いて。
その眼鏡越しに、俺へと視線を向けた。
「今日は、仕事じゃないの?」
「ああ」
「…ここにいていいの?」
「………」
「田端さんなら、絶対そう聞いてるわ。葉月くんはここにいていいの?
行くべきところがあるんじゃないの?」
「…玲の顔を、見たかったから」
紡いで、彼女の頬に触れる。
暖かさに安堵して。
「彼女のところには? 行くんでしょう?」
「…これから」
「……そう」
大きく息を吐いて、有沢は俺の隣りに立つ。
彼女を見下ろして。
それから、目を閉じて、軽く首を振っていた。
「こうなる気はしてたのよ。泣きたいくせに、泣かないから、田端さん」
「………」
「自分で自分を傷つけることはないけど。他人が自分を傷つけることだけは、平気で許しちゃう人だから」
「……ああ」
「死にたかったってわけじゃないと思う。けど、死なせてくれるなら、受け入れようと思ったんでしょうね。抗うこと、本当にしないものね」
彼女の頭を撫でて。
有沢は携帯を取り出した。
小さく息を吐いて、俺へと、視線を向ける。
「奈津実、来たけど」
「……帰る」
「でしょうね。これから迎えに行ってくるから。その間に帰ったら?
それから」
踵を返して、歩いて。
扉の前で、有沢は歩を止めて。
そこで言葉を切って、振り返った。
苦笑のような。
どこか…淋しそうな笑みで、俺を見て。
「きちんとけりを付けてから、彼女に会いに来たら?
あなたも、正々堂々と、向き合いたいでしょう?」
そう、言葉を綴ってから、出ていく。
その背中を、俺は見ていたけれど。
彼女の顔を見てから、立ち上がった。
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