その 流れを見つめて

その 水の色を眺めて

流れるものの 行く先を
考えた

海へと続くはずのそこ

けれどそこは
真っ暗で

信じることしか 俺にはできないのに

それでさえ――揺らぎそうになった




Bridge 〜 単線 〜





また、俺はやってしまったんだと、本気で後悔していた。
白いベッドの上。
左腕に、点滴が繋がれている、その姿を見て。
俺は泣きそうになりながら、そこにいた。
命に別状はないと言われてはいても。
このまま。
眠ったままなんじゃないかって、思えて。
仕方が…なくて。
紗枝が何を思っていたかなんて。
考えれば――わかりそうなものなのに。
俺はまた、見て見ぬふりを、してしまったのだと。
気づかされていた。





あの夢を見なくなったことに、疑問を抱きながら。
それでも、思い出すのは起きた直後ぐらいのもので。
動き出すと、どうしても。
今日は何の仕事があったとか。
何をしなくちゃいけないだとか。
そんなことで、頭がいっぱいになっていたから。
夢のことも。
川のことも。
暗闇のことも。
少女のことでさえも。
俺はすっかり忘れて、毎日に追われていた。
するべきことはわかっていたけれど。
考えながらも、目を背けて。
過ごしていた。

彼女に会うのは。
仕事の時に、本当にわずかな間ぐらいで。
一言二言、言葉を交わして。
それですぐに、別れてしまう。
たった、それだけの時間が。
俺には待ち遠しくて。
やってくれば、楽しくて、仕方のない時間で。
気軽に触れることが、どうしてもできないという、そのことが。
本当に、もどかしい。

紗枝は。
俺が会いたいと伝えるか、紗枝からそう、言ってくれば。
必ず会える。
仕事の時に、偶然会えたりすると。
嬉しくて。
紗枝もそう思ってくれているのが、本当に嬉しくて。
仕事でその場所に行く時に。
会えるだろうか、なんて考えている自分がいることは、事実だった。
気兼ねも何もなく、触れることができる。
紗枝に触れることができるのは、嬉しくて。
その暖かさに、ほっとしていた。

その二つの気持ちに。
その違いに。
俺はまだ、答えは出せないままでいて。
二人の心の動きにも。
気づいていながら。
目を背けていた。



その日も仕事で。
夢を見なかったということに、眉根を寄せたけれど。
鳴り響いた着信音に、それはかき消された。
通話ボタンを押して。
マネージャーの声を聞いて。
一日のスケジュールを、すべて把握していく。
その頃には、夢のことはすっかり忘れていて。
朝食を軽く摂って、顔を洗って。
時間に間にあうように。
俺は家を出た。

「葉月!」
スタジオのあるビルへと入った瞬間。
すぐに声をかけられて。
俺は伏せていた視線を上げる。
目の前の階段の上。
そこにいたやつに、俺は小さく、笑みを投げた。
「どうした?」
「これから仕事?」
「まだ…あと、一時間ぐらいある」
「あ。もしかして、俺のあと?」
「? そうなのか?」
「Bスタだったら、そう」
「ああ。Bスタジオ」
「今、実はちょっと休憩中」
「そうか」
階段を上がって、尽の隣りへと進んでいく。
そこで立ち止まって。
「あと三十分ぐらいで終わるんじゃん?」
「じゃ、俺の仕事も早く終わるな」
「……プレッシャー…」
落とされた言葉に、くすくすと笑いを零した。
それを憮然とした顔で受け止めて。
尽は手すりへと、身体を預ける。
「っていうかさ。本当はあと、1カットなんだけどさー」
「…苦戦してるのか?」
「ちょっと。うまく行かなくて」
小さく息を吐いて、尽は天井を見上げて。
それから、ああ、そうだ、と声を発した。
「? どうした?」
「姉ちゃん、これから来るって」
「今日……仕事じゃないだろ?」
「そうなんだけど。何か、俺に渡したいもんがあるらしいんだ。何かはわかんないけど」
「………」
「紗枝さんは? 今日、仕事?」
「いや。でも、紗枝もここには来るとか言ってた」
「何で?」
「知らない。だから……俺の仕事が終わったあとにでも、飯…食いに行こうかって」
言い放って、俺は視線を下へと落とす。
本当は知ってる。
紗枝がここに、来る理由。
あいつはあいつなりに、彼女のことを調べて回ってる。
そして…たぶん。
紗枝は彼女に、会いたがっている。
自分と彼女の。
その違いを探るために。
だから、もしかしたら。
今日、二人は対峙するのかもしれなくて。
それでも、あまり大事にはならないだろうと思う。
紗枝は感情を表に出す方だけれど。
彼女は、静かに吐き出すタイプだから。
だから。
「そっか。それならいいんだけどさ。姉ちゃん、久々に家に帰るって言ってるから。今日、一緒に帰るんだ。母さんなんかさ。すっごい楽しみにしてて。玲の好きなもの、いっぱい作る、とかって、張り切ってたよ。家を出てくる時」
「へぇー…」
「いつでも帰ってくればいいのにさ。何か……急に帰ったら迷惑なんじゃないかって、考えてるんじゃないかな? みんな、待ってるのに。姉ちゃんが帰ってくること」
「………」
変なところで、急に臆病になるのは。
彼女の悪い癖だと、俺は思う。
いくら大丈夫だと届けても。
届けたとしても。
自分の目で、心で見ないと、信じない。
無条件で受け入れてくれる人間も――いるのに。
家族はその、最たるものだと思うのに。
彼女は誰をも、信じ切ることはできずにいて。
俺はゆっくりと、瞼を閉じた。
そう、最初は。
彼女と一緒に、暮らしはじめた時は。
彼女に、無条件でいられる場所を、与えてやりたかった。
だから、家事は二人で分担して。
やりたくない日は、やらなくていいとさえ、届けて。
なのに。
誰でもない俺が。
彼女にそばにいる、その条件を望んでしまった。
思えば、彼女らしくない行動を取らせてしまっていた。
遅く帰った時。
疲れて帰った、その時。
そばに来たそうな彼女を、無視したのは俺で。
本当に、必要な時だけ、彼女を求めてしまった。
それがどんなに、彼女に苦痛を与えていたのかは、俺にはわからないけれど。
かなりのものだったはずで。
けれど彼女は、それに答えてくれた。
ほかでもない、俺のため。
そして、彼女が俺のそばに、いるため。
なのに。
べつの。
また、遅く帰った時。
彼女は俺のために、そばに来なかったのに。
彼女らしくないと。
その時は、口にして。
――矛盾ばかりだと、本気で思う。
俺のためなのに。
すべて、俺のために、してくれていたことなのに。
同じ場所で仕事をしていても。
そばにいられることを拒んだかと思えば。
どうしてそばにいないのかと。
それで……怒って。
俺が一方的に怒って。
彼女は静かに、聞いていた。
瞼を閉じることもなく。
ただ、視線を伏せて。
俺の叱責を、甘んじて受けて。
悪いのは、俺なのに。
俺でしか、ないのに。
「悪い、葉月。俺、そろそろ行くな?」
「……ああ」
頷きを返して、遠ざかるその背中を見る。
いつだって、彼女でいてほしいと願ったのに。
ありのままの彼女でいてほしいと。
そう…思っていたのに。
ゆっくりと足を動かして。
俺にとあてがわれていた控え室へと、滑り込む。
扉を閉めて、その扉に、背を寄りかからせて。
俺は瞼を閉じた。
彼女の顔から、笑みを消したのは、俺で。
彼女らしくない、その行動を取らせていたのも、俺で。
俺の理想は、彼女そのものだった、はずなのに。
ずるずると、その場に座り込む。
小さく自嘲をしても。
辺りに響かずに、すぐに掻き消えた。
扉の向こうからは、数人の足音と、話し声が聞こえる。
それでも俺は、動けずに。
そこにしばし、留まっていた。


四十分後。
マネージャーが呼びに来て。
俺は控え室から、衣装を着込んだその姿で、撮影場所へと向かう。
途中擦れ違った尽は。
マネージャーにあれこれ言われていて。
苦笑を零していた。
俺と目が合って。
小さく手を挙げてくれた。
それに手を挙げ返して。
俺は足早に、移動する。
その先には、彼女がいるはずで。
いなくても、出会うはずで。
出会えるはずで。
それでも、彼女に会わないまま、その扉をくぐれば。
彼女は近くの壁に背を預けて。
スタッフが動き回る、その様子を見ていた。
その彼女に近寄って。
「玲」
短く、名前を呼べば。
彼女は振り返って、俺をその瞳に映してくれた。
「撮影? 今から?」
「ああ」
肯定の言葉を一言で綴れば。
彼女は「頑張ってね」と、言ってくれる。
それから、他愛ない言葉を、いくつか交わした。
俺に向けられる笑みは、変わっていなくて。
やっぱり、触れたくて。
仕方がなかったけれど。
俺には、その資格はなかったから。
彼女の言葉に、必死になって、頷きを返していた。
そうしていると、すぐにカメラマンに呼ばれて。
俺は彼女に断りを入れて、セットへと歩いていく。
そして、飛ぶ、カメラマンからの要求に応えながらも。
俺は彼女を見ていたくて、仕方がなくて。
けれど、それは。
その時に現れた女性によって――途切れてしまった。

彼女を、視界の端に捉えていたのに。
ふっと消えて。
俺は急いで、その姿を追いかけた。
と、その人物にも気づいて。
俺は小さく、息を吐く。
わずかに眉根を寄せて。
それでも、二人は離れずに、そこにいた。
会話をしているようだったけれど。
俺の耳には、届かなくて。
二人が並ぶそこから。
なぜか俺は、視線を逸らす。
いい、機会だったのに。
彼女と紗枝と。
どちらがより、大切かを知る。
いい…機会だったのに。
耳に届くのは、要求の声と。
シャッター音。
フラッシュが煩わしくて、仕方がなくて。
二人を引き剥がしたくて、仕方がなかった。
彼女の手を取って。
引き寄せて――――。
「…そうか……」
小さく小さく呟いて。
俺は向きを変える。
彼女の手を取って、引き寄せることで。
彼女はただ、驚くだけ。
けれど紗枝は。
傷ついてしまう。
俺が、紗枝よりも彼女を取ったから。
そう。そういうこと。
俺はやっぱり、彼女が一番で。
結局紗枝は、彼女の代わりでしかなかった。
いくら、昔の彼女に似ていても。
『あき』にそっくりであったとしても。
俺が欲しているのは、彼女自身に、ほかならないのだと。
そう、答えを出した、直後。
その声は、スタジオ内に響いた。

玲と呼んだ、その声は。
まさしく、尽のもので。
切羽詰まったような、必死なそれに、みんなが尽を見て。
それから、尽が見ているものへと、視線を動かす。
それは俺も、例外ではなくて。
瞬間、瞳に映ったものに、俺は目を見開いてた。
わずかに舞った赤に、周りから悲鳴が上がる。
彼女の下へと寄って。
走っていって。
この身を盾にしたかったのに。
それは、動かない足に、叶わなかった。
声も、出せずにいて。
喉がからからに渇いて、張り付いてしまったかのようになっていたから。
だから。
ただただ。
彼女に逃げてくれと。
どこでもいいから、逃げてくれと。
そう、願っていた。
――のに。
「あのね? 命乞いをするわけじゃないけど、意味、ないよ?」
静まり返ったそこに響いた彼女の声に。
彼女はもう、決めていることを知った。
瞳を逸らすことは、できなくて。
ただ、細めることしか、許されなくて。
「もうすでに、わたしはこうして存在してしまっていて、彼とも過ごしてしまった。その事実は消せないよ? 彼が記憶を無くすとか、そういうことがない限り」
「………」
「でも、思い出は書き変えられると思う」
だめだ! と。
叫びたいのに、声は出なくて。
二人の一番そばにいたやつが、必死になって、紗枝を説得してたけど。
意味がないことぐらい、俺にもわかった。
ナイフが振り上げられて。
俺は奥歯を噛み締める。
尽のそばに、急いでやってきたらしい、藤井の姿が見えて。
「玲!」
そう、何度も彼女のことを呼んでいた。
必死になって。
何度も、何度も。
彼女を、繋ぎ止めるように。
それを見ながら、これは――俺にと与えられた、罰なんだと。
本気でそう、思っていた。
紗枝を傷つけることは、できなくて。
ましてや、彼女に冷たい態度も取れなくて。
ぬるい水を飲み続けてきた、結果。
熱いのも、冷たいのも嫌だったから。
ぬるい水を選び、飲み切った。
飲み干した。
その――代価。
それでも。
それでも。
彼女の命は、重過ぎたから。
俺は何とか、一歩を踏み出す。
動かない身体を、どうにか動かして。
そばに行くことを、願った。
けれど、間に合いはしない。
彼女に向けられたナイフの切っ先。
その角度が変わって。
彼女が薄く、笑みを浮かべた。
だめだ、と。
そう、強く思う。
行くなと、叫びたかったけれど。
紡ぐことができたのは。
「玲!」
その、彼女の名前だけだった。

カシャン…と、音が響く。
ゆっくりと膝を突いた紗枝は、そのままその場に蹲った。
それと同時に、藤井が彼女に走り寄る。
左腕を押さえた彼女。
その指の間からは、赤い色が垣間見えて。
俺は知らず、彼女のそばへと走っていた。
尽は目を細めて、扉に寄りかかっていて。
「玲!」
藤井の声が、響いた。
彼女を抱き締めて。
その存在を確認して。
「紗枝さんは……?」
「そこで崩れてる。ナイフはもう、放してる」
「そう………」
二人の会話を、そばで聞いて。
彼女の顔を、横から見る。
青い顔をしている彼女に、目を細めて。
瞼をしっかりと閉じている彼女は、藤井に凭れかかっていて。
息が荒いと、そう感じたのは、藤井も同じ。
心配そうな顔をしたまま、彼女を抱き締める腕に、力を込めていた。
「……なっちん」
「何?」
「腕、動かな………」
「玲?」
言葉に目を見開いて。
藤井が彼女の顔を見る。
「救急車! 早く!」
ぐったりとしている彼女に、藤井が紡いだ言葉は、正しかった。
動いたのは、尽。
持っていた携帯で、電話をかけていた。
藤井が出したハンカチを奪って。
「ちゃんと買って返す」
そう、断りを入れてから、歯で挟んで。
破った。
「…別にいいけど」
そんな声を聞きながら、彼女の腕に巻いて。
きつくきつく、巻いて。
それから紗枝を見れば、放心状態で、そこにいたけれど。
彼女を床に横たわせた藤井が。
紗枝につかつかと歩み寄っていって。
パンッと。
その頬を叩いていた。
「アンタ! 自分が何やったか、ちゃんとわかってんの!?」
声が響いて。
紗枝が大きく、目を見開いて、叩かれた頬を、押さえていた。
それになお、手を挙げた藤井を、俺は止める。
「ちょ、葉月!」
「………」
「かばうわけ!?」
「違う」
「だったら…!」
「こんなことしたって、玲の傷が治るわけじゃない」
「………」
振り払われて。
俺はその場を離れた。
彼女を横抱きにして、スタジオを出る。
ようやく触れることのできた彼女に、ほっとしたけれど。
守れなかった、そのことに。
代価が、彼女に向いてしまった、そのことに。
短く、謝罪の言葉を、紡いでしまっていた。

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