| 三原が描いた
あの絵を 彼女が
目を背けようとしていた
あの絵を
三原自身は気に入っていて
ポストカードにまで
なっているのを
後日 行った時に
彼女が見つけた
「買っておこうかな?
自分のために」
なんて
ぎゅっと手を握ってから
彼女はそれへと 手を伸ばしていた
Bridge 〜 口実 〜
紗枝に触れれば、触れた分だけ。
彼女に触れたくなるのも、また事実で。
打ち合わせがあるからと、そう告げれば。
紗枝はコクンと頷いて、去っていった。
その笑顔を見ながら、心の中は、罪悪感でいっぱいで。
閉まった扉に向けたのは、大きなため息だった。
悪い、なんていう言葉は、紡げなくて。
俺が考えていることは必ず。
紗枝を傷つけてしまうだろうから。
だから…言うことはできなくて。
その場で、壁に寄りかかって、俺は瞼を下ろす。
考えるのも。
触れたいのも。
彼女なのに。
許されないとなると。
俺はすぐに、紗枝に逃げる。
短く息を吐いて、俺はリビングへと、足を向けた。
打ち合わせが長引いて。
俺は昼を、その喫茶店で軽くすませてから、彼女の下へと、車を走らせた。
紗枝に触れた分だけ。
彼女に会いたくて、どうしようもなくて。
会えば、当たり前のように、彼女からは拒絶される。
わかってはいることだけれど。
けれど、拒絶されれば。
紗枝に触れたくなる。
それでも。
触れることは、許されていたはずで。
そばにいることでさえも、許されていたはずで。
それは何も、恋人だったから。
一緒に暮らしていたから、というわけではなかったはずで。
高校時代だって。
それは許されていたのだから。
自動の扉をくぐって、エントランスへと入る。
擦れ違った親子に、一度頭を下げた。
小さな男の子が、俺の顔をじっと見ていて。
笑いかければ、恥ずかしいのか。
母親の陰に隠れていた。
その親子を見送ってから、俺は真っ直ぐに、歩を進める。
彼女の部屋番号を押して。
呼び出して。
案の定――応答はなくて。
俺は小さく、嘆息を零したけれど。
見慣れた、一台の自動車が、玄関前に止まったのに、目を細めた。
「ありがとうございました」
言いながら、降りた姿に、ほっとして。
「また何かあったら、すぐに連絡するんだよ?」
「はーい」
けれど、くすくすと笑う二人には、視線を逸らした。
嫉妬をするなんていう資格は。
今の俺にはない。
だから、表には出せずに。
黒塗りの、その車が走り去っていくのを、ただ黙って、待っているほかはなくて。
彼女が手を振れば、それは彼女から、離れていく。
けれど彼女は、まだその場から動かない。
見えなくなるまで見送るのは、彼女の癖のようなもの。
わかっているから、俺はただ、その姿を見続けて。
振り返ったその表情に、笑みが浮かんでいたことに、目を細めた。
どこにいたんだ?
そう、聞きたくて。
ずっと、あいつといたのか?
そう、問いただしたくて。
でも、できなくて。
仕方なく、ポストの方へと消えた彼女の姿を、ただ、視線で追う。
見つからないように、彼女の視界に、なぜか入らないように、動きながら。
視界に入ってきた彼女は、必死に封筒を開けていて。
破らないようにと、慎重になっている姿に、小さく笑みを零した。
拒絶されないために。
行き着いたのは、そんな考えで。
鍵を開けて、エレベーターの前へと歩を進めた彼女を追って。
扉が閉まらないうちに、中へと入った。
「玲」
呼べば。
彼女は振り返ってくれて。
その蒼い瞳に、俺を映してくれた。
扉が閉まる音が、背後でして。
彼女は小さく笑う。
その笑顔は、いつか、どこかで見た表情で。
思い出す前に、彼女は俺へと、身体を向けてくれた。
「今日、仕事は?」
「ない」
「そう」
「おまえは?」
「暇」
「そうか」
「うん」
それはきっと、彼女としかできないだろう、会話で。
余計なものをすべて省いた、その会話。
テンポがよくて。
彼女となら、きっと。
ずっと話していても、苦にはならない。
そう思える、会話。
エレベーターが来て、彼女が乗り込む。
それを追いかけて、俺も乗ろうと、足を動かした。
わかっているかのように、彼女は扉を閉めずに待っていてくれて。
そのことに、俺はほっとする。
「ウチ、来るの?」
奥の壁に背を付けると同時に、彼女からの問いかけ。
彼女の瞳は、俺を見ていて。
彼女も操作パネルのそのそばに、背を預けていた。
「行っていいなら」
「ここでダメって言ったら、君、困らない?」
「困るな」
答えを返せば、彼女は笑ってくれて。
それに、俺も笑みを零した。
けれど。
さっきの会話は、まだ終わってはいないはずで。
籠が止まって、彼女が先に降りる。
どうしたらいいのかわからないまま。
俺もそこから出た。
たぶん、彼女は許してくれているのだろうけれど。
言葉で、それを確認したかったから。
彼女の背中を見ながら、俺は口を開いた。
「玲」
「ん?」
「行っても…いいのか?」
「いいよ、別に。今、ひとりじゃいたくなかったし」
振り返らないままの返答。
それに、一瞬。
言い訳なんじゃないかって思った。
けれど。
俺と一緒にいるのに、言い訳が必要なんだろうか?
そう、考え直して。
目を細める。
言い訳なんか、必要ない。
逆に、一緒にいられない――いたくないことの言い訳なら、俺に対しては、必要だけれど。
これは、彼女の本心。
……か。
彼女自身への、言い訳。
後者だとしたら、彼女の本心がどこにあるのかは、わからないけれど。
それでも。
俺と一緒にいたいと思ってくれていることは――確かで。
一つのドアの前で、彼女は立ち止まる。
鍵を開けて、そのドアを開けて。
玄関で一度、大きく息を吸い込んでから、彼女は家へと上がった。
俺に何も言わずに、一人で中へ。
それをすぐに追おうとも思ったけれど。
俺は後ろ手に、鍵を閉めてから、靴を脱いだ。
『鍵、閉めてきてね』
何度となく言われた言葉を、思い出したから。
そうしてから、彼女へと視線を向ければ。
誰かからの手紙を開いていた。
「何だ?」
「麻衣から」
「月宮?」
「今は佐倉」
「…だったな」
彼女の手に持たれているそれを、後ろから覗き込めば。
見えたのは『報告!』という、その文字。
それに眉根を寄せて、見える範囲で、読んでいく。
意識的に、彼女のことを。
今の、彼女との実質的な距離を。
意識しなかったのはやっぱり。
触れること、そばにいることを許されていた、あの頃に戻れたらと。
きっと――切に願っていたせいで。
想いを持って触れること、そばにいることが許されないなら。
今の俺には。
彼女のそばにいること。
触れることの理由が。
『友達だから』というそれ以外には、見つからなかった。
「赤ん坊?」
「妊娠したんだって」
読み終えたのか、一枚目のそれを差し出されて、俺は受け取った。
べつに読んでもいいということなのだと解して、それに目を通す。
――彼女の態度は、少し違うものになったのかもしれない。
何となく。
彼女の、俺への態度も、昔に戻ったような。
そんな錯覚すら、覚えた。
「光太さん、気が早いね。名前、もう決めてるんだって」
「そうか」
「うん。麻衣は呆れてるみたい。生まれて、落ち着いたらこっちに来てくれるって」
くすくす笑いながら、彼女は二枚目を差し出してくる。
「あの麻衣がお母さんかー。何か似合わない」
二枚目が差し出されて。
笑顔を俺に、向けてくれて。
それが嬉しくて、俺も笑みを浮かべる。
『友達』なら。
その理由なら。
彼女はここまで、許してくれる。
そばにいることも。
共に笑うことも。
そして、触れることさえも。
手紙には、俺たちのことには、一切触れていなくて。
俺はただ、あいつだしな、なんて、それだけを思ってた。
下手な慰めは、悲しみを抉ることにしかならないことを知っている。
あいつはそういうやつで。
それに、あいつも俺をけしかけた、共犯者のようなものだから。
「赤ちゃんか…。可愛いよね? 小さくて。天使だけど、悪魔なの」
「ああ」
急に放たれた一言に。
思った通りの答えを返した。
かわいいということに対しては、反論はない。
懐かれるかどうかっていうと、微妙だけれど。
見ているだけなら、本当に天使だとさえ思えるけれど。
それでも時々。
赤ん坊だからっていう理由で、何でも許されるわけじゃない、ってことを、わからないだろうけれど、言いたくもなって。
「麻衣も嬉しそうだけど、文面読んでると、一番嬉しがってるのは光太さんだよね。しかも、甘やかしそう。親バカになりそうだな、光太さん」
そう言いながら。
彼女がもう、喜んでいることがわかって。
俺は小さく、微苦笑を零した。
そうしていると、彼女の表情から、ふっ…と、笑みが消されて。
「昨日ね、熊谷さんのとこに泊まったんだけど」
真顔になって、そう言葉を紡いだ。
三枚目をテーブルに置いて、背中を向けられながらだけれど。
一瞬見えた顔には、表情は乗っていなかった。
だから俺は、言葉を挟むことをせずに。
彼女が次に紡ぐ、その言葉を待つことしか、許されなくて。
俺はただじっと、キッチンに立った彼女を、見ていた。
冷蔵庫を開けて。
牛乳を取り出して。
それを入れた鍋を、火にかけて。
次のセリフは、その時に。
「菜穂子さん…あ、熊谷さんの奥さんね?
がね、言ってたんだ。子供が産まれて――二人だけの生活に天使が降りてきて。最初は可愛いってかまってたのに、それが徐々に、うざったくなってくるんだって。子供の世話をするのは、親の義務。そう思っちゃったら、思い直すのが大変だったんだって。義務だからそうするっていうのが、一番辛い。自分がそうしたいから、そうするんだって思わないと、何もしたくなくなっちゃうって」
「………」
「二日ぐらい、熊谷さんに世話を押し付けて、菜穂子さんは何にもしなかった時があったんだって。子育てに疲れちゃって。最初は天使だったのに、その時は悪魔だとしか思えなかったって。忙しすぎて、自分のことは何も考えられなくて――。でもね、そんな風に遠ざけてたのに、赤ちゃん、菜穂子さんのそばまで行って。にっこり笑って…呼んで。そうしたら、自分の行為がバカらしくなっちゃったって、言ってた」
背を向けられてはいたから、表情は見えなくて。
それでも、苦笑を浮かべていることだけは、見当が付いた。
ゆっくりと。
本当に、昨日のことを思い出すようにしながら、紡がれた言葉のうちに、牛乳は温まったらしくて。
彼女はそれを、カップへと注いでいた。
それぞれの手にカップを持って、彼女は戻ってきて。
俺にソファへと座るように促してから、一つをテーブルの上へと置く。
自分の分は、俺がソファへと座るのと、ほぼ同時で。
そうしてから、彼女も床へと、直に座り込んだ。
「子供は親を選べないのに、親の私が、子供を選んでどうするんだろうって。こんな親じゃない方がよかったって後悔されるよりは、やっぱり、この親でよかったって思われなきゃ、人生損だって。それからは頑張ったんだって笑ってた。だから、子供の手が離れてくれて、熊谷さんと二人で、また暮らしていけるって思った時は、ほっとしたとも言ってた」
「でも……」
「菜穂子さんと僕、似てるんだ。だから熊谷さん、僕にちょっかい出してたんだって」
小さく笑ったのに、軽く、目を細めた。
嘘は言っていない。
そう、思うから。
これは、本当のことで。
俺は心底、ほっとしていた。
「あそこの夫婦、結局、お互いしか見てないんだもん。昨日は本当、あ、今日もだけど、あてられちゃったよ」
小さく笑みを零したあとで、彼女はカップに口を付けていたけれど。
あまり温めなかったくせに、やっぱり熱かったらしくて、肩を竦めていた。
その様子を見て、やっぱり、彼女だと、そう思う。
性格は、昔の彼女に、『あき』に、似てはいても。
こういう部分までは、同じじゃない。
彼女は彼女で。
紗枝は紗枝。
わかってはいるのだけれど、縋りたくなるのも、事実でしかない。
「幸せって、人それぞれじゃない? 何をどう思うかなんて、それぞれでしょう?
それと同じで。自分が今幸せだから、相手も同じ、なんて…考えちゃいけないんだって思ったの」
「………」
「菜穂子さんが辛いから、子供も辛い、なんてわけじゃない。だから逆も有り得るんだって」
ふっと小さく息を零してから。
彼女はまた、表情を消して、そう言った。
その言葉の意味は…俺にもわかったから。
何も答えることはできなくて。
同じ時間を共有してるから、思いも同じ。
そんな……わけじゃない。
辛さとか、悲しさとか。
抱えてる方が吐き出せば、共有できるけれど。
受け取ってもらえたなら、分けられるけれど。
言わなければ、感じ取らなければならないから。
わからなければ、それで終わる。
どんな言葉が。
どんな行動が。
いつ、どんな風に。
相手を傷つけるかなんて……わからないから。
「麻衣は…平気そうだよね」
呟かれた言葉に、視線を上げると。
彼女は手紙を封筒に仕舞っていて。
それをテーブルの隅に起きながら、また、口を開いた。
「最初から、そんなことわかってるって言いそう。というより、初めから光太さんに押し付けてそうな気もするけど」
言葉に一度、俺は大きく目を見開いて。
思い浮かべた光景に、思わず身体を折っていた。
光太さんには、悪いけれど。
それが容易に思い浮かんでしまったのはきっと。
そうなる可能性が、本当に高いから。
「大変だな」
「だろうね。で、あとで麻衣が喚くんだよ。子供が父親の方が好きって言う!
って」
笑って言った彼女に、俺も笑った。
確かにそうだろうな、なんて。
オチの付いたその会話に。
彼女が俺に笑いかけてくれたのが嬉しくて。
『友達』という言葉で括れる範囲は、いったいどこまでなんだろう?
そう、思わざるを得なくなった。
彼女が笑ってくれているのは、嬉しくて。
その笑みを、ほかでもない俺に向けてくれていることが、嬉しくて。
俺は、ひとしきり、笑ってた。
彼女もずっと、笑っていて。
それに思わず。
嬉しいという、その思いを、表情に浮かべてしまった。
のだけれど、彼女はその時、俺を見てはいなくて。
時計へと、その瞳は、向けられていた。
「にしてもさ、暇じゃない?」
笑みに、いたずらっぽさを加えて。
彼女は言う。
それに、時計を視界の中央に捉えて。
今の時間を、確認した。
まだ日の高い今は、二時前で。
確かに、ここに居続けるのは、どうか、という時間かもしれない。
それに、言い出した彼女には。
もしかしたら、だけれど。
俺と一緒に、行きたい場所が――あるのかもしれなくて。
「暇だけど…どこに行くんだ?」
そう、聞いてみた。
彼女となら、どこにでも行くと。
そう、思ってはいるけれど。
『友達』なら。
その言葉は、紡いではいけないのかもしれなくて。
行きたい場所があるのなら。
俺は付いていく。とりあえず。
そんな意思表示しかできないのが、もどかしかった。
「あのさ」
行くことを知らせた俺の態度が嬉しかったのか、彼女はますます笑みを濃くして。
その場所を知らせようと口を開く。
「学校、行かない?」
聞いた瞬間、眉根を寄せてしまったけれど。
「氷室先生の恋のお相手を、どうしても知りたいんだ」
その綴られた言葉には、驚いていた。
聞けば、氷室先生自身は、自分がそういう感情を抱いていることを自覚していないらしくて。
でも絶対、あれはそうなんだと、彼女は譲らなくて。
それらを聞いて。
確かに、それは知りたいかもな、なんて、ふと思ってしまったから。
俺もまた、笑みを浮かべて、頷いて見せた。
|