| 人にあげることはするくせに 自分がもらうと 微苦笑を零して
見るのは好きなくせに
触れることは
あまりしない
「綺麗に咲いてるのを
精一杯咲いてるのを
邪魔したくないの」
「それに…
わたしに世話出来るかどうかっていうと
自信 ないからさ」
苦笑っていた彼女の頭に
俺は手を伸ばしていた
Bridge 〜 広孔 〜
考えるのは、彼女のことなのに。
こんなにも、彼女のことだけ、なのに。
真っ白なだけだったスケッチブックに描かれたものを見て、俺はそう、考えていた。
離れてみて。
本当に、彼女の大切さがわかった。
のに。
彼女に拒絶されれば、されただけ。
紗枝に触れたくなるのも、事実で。
スケッチブックを置いて、空へと目を向ける。
これだけ描けば、充分だろう。
そう考えて。
立ち上がった。
家へと帰って。
明日、朝早くにこれ――スケッチブックを、取りに来たやつに渡して。
そうしたらきっと。
打ち合わせ、とか言って、連れ出されることは、目に見えていて。
とりあえず、それが終わってから、彼女の家に行ってみよう。
考えて、息を吐いた。
本当は、帰る前に一度。
彼女の下へと行きたいけれど。
時間が、時間だったから。
やめざるを得なくて。
上げた視界には。
しっかりと闇が、降りていた。
二つの足音が重なる中。
俺は自分の右手を見ていた。
穴があると、自分で言った、その右手。
でも。
ここにあるのは。
人を傷つけるだけの、刺。
それしかない。
今は巧妙に。
俺にさえ見えないぐらい、巧妙に。
隠れているけれど。
俺の刺は、確実に――彼女を傷つけた。
そしてそれは。
間接的にではあるけれど、俺自身も傷つけてくれた。
「おにいちゃん」
声が響いて。
俺は視線を、川の向こうへと移す。
足音は変わらない。
そのリズムでさえも。
「どうした?」
心配になって、返事をすれば。
一つの足音は、止まった。
慌てて、俺も歩みを止める。
「どうした?」
強く、少し声に力を込めて、もう一度問えば。
「つかれた……」
なんて言葉。
それにほっとして。
「少し、休憩するか」
そう、笑いを含んだ声で答えた。
ずいぶん歩いたしな。
思って、振り向いてみても。
本当に歩いたのかも、わからない。
どれだけの距離を歩いたのかも。
暗闇ばかりでは、わからない。
「おにいちゃんは、つかれてないの?」
「…平気」
「………」
ジャリッと響いた音は。
少女が足を滑らせたから。
座ったのかもしれないと考えて、俺も腰を下ろす。
川に向かって座ってみても。
結局、視界に広がっているのは、ただ一色で。
同じ色、ばかりで。
俺はそのことに、小さく息を吐いた。
「…きいてもいい?」
「ん?」
「あの、あなのことをいってたおねえちゃん」
「…? ああ」
「そのあなをうめてもらうことだけをかんがえてたのかな?」
「……たぶんな」
「それじゃ、だめなんだよね?」
「当たり前だろ?」
「けど、どうしてそうかんがえちゃうの?」
「………」
「……?」
「……みんな、必死なんだ。きっと」
「? ひっし…?」
「自分のことだけで…な」
「………」
「相手が引いてくれるなら。それでもいいと言ってくれるなら。やっぱり、甘えてしまう。相手がどれだけ傷ついているかなんて、見ないままで」
「たいせつなひとなのに?」
「ずっと一緒にいると、それでさえ忘れてしまうんだ。今がどれだけ幸せか…忘れてしまう。幸せの中にずっといるから、麻痺していくんだろうな。だから。だから…離れてしまうと。どれだけ大切だったか、思い出す。どれだけ幸せだったのかを、実感する」
「………」
「遅いんだけどな。でも、思い出さざるをえないんだ」
「………」
視線を落として。
あぐらをかいたそこへと落ち着けた手を見る。
彼女の隣りに並びたいと願った日々は。
あんなにも、彼女のことに必死だった。
彼女の笑顔を見るために。
彼女に…触れるために。
なのに、それが当たり前になってしまうと。
いろんなものが、見えなくなった。
彼女に対しての、ことが。
変わりに、彼女以外のものが見えてきて。
そっちにばかり、気持ちが動いた。
彼女の心が離れていく。
それは――わかっていたのに。
何が一番大事なのかを、見失って。
失くしてからようやく、思い出した。
「まひ、しちゃうんだ?」
「ああ」
「だいじなのに?」
「ああ」
「………」
「痛みも、痛覚――その痛みでさえも、麻痺してしまえば。忘れるだろ?
そこに傷があったこと」
「……うん」
「そんな風に、麻痺していくんだ。何も起こらない、平穏な日々が、一番幸せなのに。それに、物足らなくなってくる。で、小さな変化を求めて。大きな変化を求めて。失敗して。あの頃が一番よかったって思う」
「………」
「幸せだったって、あとで気づく。そういうものなんだ」
言い切って、小さく息を吐く。
と、川の向こうからは、小さく頷く声がして。
「でもやっぱり」
「?」
「わたしは、いまのじょうたいはいや」
「そうだな。今のおまえは、幸せとは言えないな」
たったひとりでいることは、淋しいことでしかないから。
淋しさに埋もれてしまえば。
人の暖かさを、忘れてしまえば。
今のままでもいいかと思ってしまうけれど。
淋しさに慣れることは――絶対に、ないから。
「だから、おにいちゃんにあうの」
誓いのように発された言葉の直後。
また、ジャリッと、足を滑らせるような音が響いて。
俺も慌てて、立ち上がる。
「おにいちゃんにあうことも、へんかだよね?」
「ああ」
ゆっくりと。
また、同じリズムで立ちはじめた足音に。
俺もゆっくりと、足を動かしていく。
進む方向に瞳を向けて。
広がり続けているその色の中から、その姿は見えなかったけれど。
橋は……必ず、あるはずだから。
走り出しそうになる自分を諌めて。
俺はそれを見つけ出すために。
向こう側に、渡るために。
なお、歩き続けていた。
ピンポーン……
予定よりも。
約束よりも早くに鳴り響いた音に、俺は深く眉根を寄せた。
それでも、ゆっくりと玄関へと爪先を向ける。
予定よりも。
約束よりも。
三十分は早い、その訪問。
無言で扉を開ければ、そこには。
いるべき人間は、いなかった。
「……紗枝」
「………」
「マークされてるだろ? マスコミに。おまえも」
「…いいじゃないですか。みんな、私たちが付き合ってること、知ってるんですから」
言葉に目を細める。
それはそうだけれど。
けれど。
「………」
何も言わずに、そこにいる――居続ける彼女に。
俺は仕方なく、ドアを開け切って。
彼女を中へと、促した。
リビングへと案内して。
とりあえず、コーヒーを用意する。
どうして、彼女がここに来たのかは。
わかっているけれど、わかりたくはなくて。
俺は緩慢な動作で、すべてをやっていた。
コーヒーの、その香りが立ち込めて。
鼻孔を擽っても。
いい気分には、ならないまま。
俺のと。
もう一つのカップを持って。
俺はそこへと近づいていく。
彼女が俺に聞きたいことはきっと。
たった――一つだけで。
俺はそれに、うまく答えられる自信が、まだ。
ない、まま。
コトッと、置いて。
彼女の隣りへと、腰かける。
いつまでも視線を逸らしているわけにはいかなくて。
俺はすっと、視線を上げた。
けれど、彼女は俺を見ずに。
ただ。
カップへと手を伸ばしていた。
両手で包んで。
わずかに息を吹きかけたあとで。
口を付ける。
それにさえ、俺は目を細めて。
違うのだと、それを確認していた。
彼女は――猫舌で。
いつまでも、息を吹きかけ続けていたのに。
それでも、我慢できなくなって、口を付ければ。
その熱さに、顔を顰めていたのに。
考えて。
思い出して。
彼女から視線を逸らしてから、小さく首を振った。
カップが置かれた、その音がして。
彼女が短く、息を吐く。
「聞いても、いいですか?」
綴られた問いに、視線を上げる。
けれど、彼女から。
視線は……返されないまま。
そのことに、肯定の言葉を、紡いだ。
視線をもう一度、伏せながら。
「私のこと。葉月さんはどう思ってるんですか?」
ずっと、聞きたいと思ってたんです。
瞳はまだ、向けられないままで。
俺は瞼を閉じる。
どう言えばいいのかが、わからない。
けれど。
「――好きなんだとは……思う」
ソファがわずかに揺れて。
彼女が驚いたことを知った。
ぎゅっと手を握って。
俺は次に紡ぐべき言葉を、探してた。
「俺は、おまえのこと。すごく、大事なんだ。それは、はっきりしてる」
「…葉月さん……」
「でも、あいつも、大事なんだ」
「………」
「どちらも大事で、大切で。俺はまだ……決められずにいる」
正直に言えば。
俺を包んでいた瞳は、視線は――なくなって。
俺はなおも、自分の手を、強く握った。
どちらの手も取れないまま。
どちらにも、手を差し伸べられないまま。
どちらの名前も、綴れないまま。
俺はまだ、悩み続けている。
怖々と重ねられた暖かさに、俺は驚いて、顔を上げたけれど。
「答えが出るの、待ってます」
紡がれた言葉に。
俺は彼女を、抱き締めていた。
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