公園なんかに行くのには
用なんかほとんどなくて

いらなくて

そういう時は
木陰に入って 昼寝をする

それが 俺たちの暗黙の了解で

彼女の膝を勝手に借りて
俺は昼寝を開始して

彼女はそれに 嬉しそうに笑って
俺の髪に指を潜らせていた

「いい天気だね」

言って

「この樹 大きいね」

零して

彼女はその
樹の幹に触れていた




Bridge 〜 此岸 〜





ようやく、彼女の手に触れることのできた、あの時。
できることなら、引き寄せて。
抱き締めてしまいたかった。
けれど、できなかったのは。
彼女が俺の手を、握り返してはくれなかったから。
一線を超えることは、なかった。
理由はわかっていたから。
彼女には何も言えなかったけれど。
できることなら、この腕の中に。
閉じ込めてしまいたかった。

「葉月?」
声をかけられるまで、どれぐらい経ったのかは、わからないけれど。
それまでずっと、俺は一点に視線を注いでいた。
彼女を乗せた車が去っていった、その方向を。
その姿を、残像を。
追いかけるみたいに。
「どうしたんだよ?」
「べつに」
そばまで来て、俺の顔を見上げてくるその瞳に。
俺は苦笑を零す。
それでもなお、聞きたそうにしているのに、緩く首を振って。
尽の頭の上に手を置いた。
その……あとで。
帰ろうと足を踏み出したのだけれど。
「送ってってくれよ」
隣りに付いた尽は。
真っ直ぐに外を見ながら、言葉を綴る。
彼のその、言葉には。
俺は否定することも、できなくて。
「……わかった」
そう答えることしか、できなかった。

車に乗り込んで、どこに行こうかと考える。
単純に送っていくだけでは、きっと。
彼は納得しないだろう。
そんなことを考えて。
とりあえず、アクセルを踏み込んだ。
「………」
俺も尽も話そうとはしなくて。
というより、何を話したいいのかが、わからなくて。
俺は黙っていたのだけれど。
「今日さ」
ぽつりと。
尽が言葉を発した。
「ん?」
「今日…後半、紗枝さんと一緒だったんだ。仕事」
「そうか」
「紗枝さん、笑ってなかった。無理に笑おうって。そんな感じだった」
「…そうか」
「それと。俺、今日、葉月がいるなんて、思ってなかった」
「…だろうな」
「だから……会ったんだろ? 姉ちゃんに」
静かに問われて。
黙り込む。
ハンドルをぎゅっと握ったのは。
彼女の手を取った、その時のことを思い出したから。
「奈津実さんから聞いた。この前、葉月が姉ちゃんのマンションに来てたって。理由聞いたら、会いたかったからって言われたって」
「…ああ」
「決めたんだろ? 決まってたのかもしれないけど」
「………」
「だったら。今の状態は絶対、誰も幸せにはしないと思う」
「………」
「誰も幸せには、ならないと思う」
今のままじゃ、絶対に。
落とされた言葉に、目を細めた。
誰も傷つけずにいることなんて。
そんなこと、できないことは、わかっているけれど。
どちらも大切であることに、変わりはなくて。
大切だから、傷つけたくも、なくて。
そんなこと。
――逃げでしかないことぐらい、わかっていたけれど。
わかっているけれど。
何かを手に入れるためには、犠牲は付き物で。
このままでいてはいけないこともわかっているけれど。
俺には、どうすることもできなくて。
紗枝を犠牲にすることは、嫌だった。
それでも、悲しませてしまっていることは、事実で。
紗枝が、俺の感情の変化に気づいていることは、事実で。
事実でしかないのだと、俺の前に晒されたわけで。
「葉月の気持ちもわかるよ。けど、このままじゃいけない。わかってんだろ? そんなこと」
「………」
無言で、ハンドルを切る。
何をどう言えばいいのかが、わからなかった。
そのままを伝えたとしても。
俺が思っている、口にしようとしている言葉を綴っても。
俺の言いたいことがきちんと伝わるのかが、わからなかった。
彼女がいるなら。
そばに、いてくれるなら。
足りない言葉を補ってくれるのに。
そんな彼女のことは。
本当に大切で。
大事で。
誰よりも、触れたい相手。
紗枝のことも。
本当に大切で。
大事で。
誰よりも、守りたい相手。
触れたいか、守りたいか。
ただ、それだけの違い。
彼女を傷つけることは、できればしたくはないけれど。
傷つけるようなことは、絶対にしてしまう。
そばにいれば。
触れてしまえば。
彼女の表情が、苦痛に歪むことは、仕方がなくて。
けれど、紗枝のことは。
絶対に、傷つけたくはない。
ずっと、笑っていてほしい、相手。
何ものからも、守ってやりたい。
そう、思う相手。
似ているけれど、全然違う。
二つの想い。
『愛している』と、『好き』。
その二つの意味が、違うように。
「……『好き』には、いろんな意味が込められるのにな」
「? 葉月?」
「『愛してる』って言葉が持つ意味は、ただ一つだけ…なんだよな」
「………」
ブレーキを踏んで、車を止める。
目の前の信号は赤で。
クラッチをそこへと移動させて。
横断歩道を横切っていく人の流れを、ただ見ていた。
足早に行く人もいれば。
ゆっくりと歩んでいく人もいる。
一人の人もいれば。
何人かの団体もあった。
「でも……」
「?」
「『愛してる』って、どういうことなんだろうな?」
「葉月……」
「わかってるようで、わかってない。きっと、俺は」
「………」
「辞書を開けば。『愛する』の意味は、いくつかあるけど。『慈しみ、可愛がる』っていうそれなら。俺は二人を慈しんでるし、可愛がっているんだと思う。やり方は違うけど。でも、確実に」
「……うん」
「『好む。慕う』っていうなら。俺は二人を好きだし、慕ってる」
「…うん」
「『恋する』…でも、同じなんだ。俺は二人に、恋をしたし。してるんだと思う」
「うん」
「でも、『愛する』って、そういう意味じゃないだろ? 守りたいって、触れたいって、そう思うことだろ?」
「………」
信号の色が変わって、俺は車を、また動かしていく。
守りたいのは、紗枝で。
触れたいのは、彼女。
彼女は、守ってほしいとは言わない。
紗枝は、触れてほしいとは言わない。
その差、なのかもしれなくて。
「俺は、玲のことを愛してるんだと思う。けど。そういう意味なら。守りたいって、触れたいっていうことなら。どっちのことを愛してるのかは、わからない」
「葉月……」
「守りたいのは紗枝で。触れたいのは玲だから」
「………」
「だからまだ、答えは出せない」
「……」
「……出せてない」
それからは、俺も尽も、黙ったままで。
俺はそのまま、真っ直ぐに。
尽を家へと、送り届けた。
短い、小さなお礼はもらったけど。
それ以上、尽は何も、言わなかった。



「あなだっていうひとがいたの」
声が聞こえて、俺は瞼を上げた。
そこには暗闇が広がっていて。
ああ、夢か…と。
俺は考えていた。
いつものあの。
川と、少女の。
あの夢だと。
「おにいちゃん、いみわかる?」
問いかけられて。
その質問の意味がわからずに、俺は川の向こうにいるんだろう少女に、首を傾げて見せた。
俺から少女は見えなくても。
少女からは、俺の姿が見えるから。
「きいてなかったの?」
「…悪い」
「もー」
そう、声が上がって。
俺は苦笑を零した。
まだ――橋は見えない。
「そのひと、さっかなんだって、いってたの」
「え?」
作家?
彼女と同じ?
「じぶんには、あながあって。で、それをおぎなってくれるひとをさがしてたんだって。でも、みつけたとおもったそのときには。そのひとにはこいびとがいて。それでもって、おもってたんだけど。けっきょくはむりだったって、ないてた」
「………」
「わかる?」
彼女ではないことがわかって。
俺はほっとすると同時に、眉根を寄せた。
彼女はここには来ていないのだろうか、なんて。
彼女も、失ったはずなのに。
俺…と、同様に。
なのに、なぜ?
そう、思ってしまったから。
「おにいちゃん?」
「ん?」
「またきいてなかったの?」
怒られて。
また苦笑。
聞いていなかったわけではないのだけれど。
そんなことを思いながら、口を開いた。
たぶん、こういうことなんだろうと。
うまく伝えられるだろうか?
教えられるだろうか?
そう、考えながら。
「――たとえば、おまえに…欠けているものがあるとするだろ?」
「?」
「さっきの、穴の話」
「うん。わたしに、かけているものがあるとする」
「で、その欠けている部分。俺が持っているとする」
「? うん」
「それを補ってやることができるのは俺だけで。おまえのそばにいてやることで、おまえの欠けている部分――穴は埋まる」
「?」
「もう少し……簡単にするか?」
「うん…。よくわかんない」
言葉に、ふっと笑って。
言葉を探す。
息を吐いて。
「俺にも…穴があるとしよう」
そう、綴りはじめた。
「? うん」
「おまえにも、穴があって」
「わたしにも?」
「ああ。…で。俺には……そうだな。この手にするか」
手を目の前に翳して、言って。
「わたしには?」
「逆の手」
「ひだりて?」
「ああ」
「で?」
「俺は、おまえの左手を元に戻してやろうと思ったけど。何も持ってないから。自分の左手を、犠牲にした」
「!」
「おまえの左手は戻ったけど。俺の左手には、穴ができて。右手には元々、穴がある」
「おにいちゃん、りょうてつかえなくなっちゃうの?」
「だな」
「そんなのかわいそうだよ! わたし、みぎてあげる!」
「…そうしたらまた、俺はおまえに、右手をやる」
「じゃ、じゃあ……」
「補うって、そういうことだ。自分で治せないし、埋められないから。誰かに頼るしかなくなる」
「………」
「みんな、そういう意味じゃ、穴を持ってる。埋められないぐらい、大きい、穴」
「どうして?」
「みんな、少なからず、自分に不満は持ってるからな。おまえだってあるだろ? 自分の嫌なところ」
「うん」
「それが、穴」
「………」
「俺にそれが補えるかは、わからないけど。自分が持っていて、相手が持っていないもの。相手が持っていて、自分が持っていないもの。その二つが一致する相手を見つけるのって、大変なんだ」
言い終えて、俺は右手をぎゅっと握り締めた。
俺の穴は、どこにあるんだろう?
補ってくれるのは、どちらなのだろう?
考えて。
「おにいちゃんには、そんなひとが、いるの?」
その問いに。
不意に投げられた、その問いに。
曖昧に、苦笑を零すことしか、できなかった。



スケッチブックを広げて。
大きく、ため息を吐く。
気になるのは、彼女のことで。
仕事が終わったら、彼女の家に行こうか、とも考えたけれど。
いつ終わるのかが、果てしなく、わからなくて。
「………」
急に考えろって言われても、出てくるわけ、ないだろ。
持っていたスケッチブックを机に置いて。
その上に、クロッキーを放った。
肩を落として、いすの背もたれに乱暴に身体を預ける。
ギシッと悲鳴を上げたそれに、またため息を吐いて。
背後の窓の方へと、回転させた。
もう、日は沈みきっていて。
小さく瞬くのは、星ばかりで。
そこから、月は見えなかった。
月は、彼女の好きなものの一つで。
風も、彼女は好きで。
でも、水はあまり好きじゃないと、そう言っていた。
「誕生月から行くとね? わたし、エレメンタルが『水』なんだけど」
「?」
「守護星も、マーキュリーで『水』なんだけど」
「……ああ」
「でもね? 何か、好きじゃないんだ。『水』っていう、モチーフっていうか、形」
呟くように零された言葉は。
俺のスケッチブックへと視線を落としていた時のもので。
「『風』って、難しい?」
そんな風にも、聞いてきて。
俺は確か、それを形にしたはずだった。
『風』の象徴と言えば、鳥で。
それを……描いたはずで。
それは、形になって、世に出たはずで。
「『風』と『月』……か」
呟いて。
俺はゆっくりと、息を吐き出した。



ようやく、彼女に触れることのできた、あの時。
嬉しかったし。
この腕に、閉じ込めてしまいたいと。
抱き込んでしまいたいと。
そんな衝動に駆られた。
それは――本当のことだけれど。
彼女が離れていった、あの時に。
すぐに触れたいと願ったのは。
紗枝の方だった。

NEXT

BACK

RETURN