丸い 七色に光るそれに
彼女は一度 じゃれ付くように
手を伸ばしたけれど

すぐにそれを 引っ込めた

理由は簡単で
割りたくないから
という ただそれだけで

それに気づいた時
俺はただ
そんな彼女に向けて

笑みを発してた




Bridge 〜 差違 〜





違う、と。
ただそれだけを思っていた。
腕に抱いていても。
素肌に直接、触れていても。
今こうして、隣りで眠る姿を見ていても。
この状況は何かが違うと。
心の中で、何かが叫んでいた。
違うと、ただそれだけを。
それはつまり、そういうことで。
彼女は違うのだと、そういうことで。
彼女でないとだめなのだと。
そういう――ことで。
「ん……」
小さくそう声を上げて、紗枝が寝返りを打つ。
ただそれだけだというのに。
違うと、どこかで声が上がった。
触れようとも思わずに、ただただ俺は、寝ている紗枝の姿を見続ける。
上半身を起こして。
そのままで。
邪魔もせず。
見ているだけ。
ゆっくりと片膝を立てて、なおも、見続けて。
違うという、そのことだけを、思い続ける。
それ以外は、何も生まれず。
俺は静かに、ベッドから降りた。

シーツの擦れる音がして。
「…葉月さん?」
続いて、そう声が届いた。
ベッドが軋んだ、その音もして。
彼女が上半身を起こしたことを知る。
それに振り向いて、彼女を見た。
着替えを途中で止めて。
「悪い。用事があるから、先に帰る」
「………」
「金は払っておくから、ゆっくりしていけ」
言いながら、また着替えを再開させた。
視線を逸らして。
触れようとも、思わずに。
「………」
そんな俺に、紗枝は黙ったままで。
俺はただ、自分の用意をさっさと済ませて。
「じゃあまた、連絡する」
そう言い残して、その部屋を出た。
連絡する気なんて、さらさらなかったのに。
パタンと音を立てて閉まった扉に、わずかに背を預けて。
俺は長く、息を吐く。
どうしたいか、なんて言うことは、わかりきっていて。
答えももう、出ていて。
だからと言って、どうすることもできないままで。
俺はとりあえず、ホテルを出るために、踵を返した。



車を停めたのは、その場所で。
エントランスを横切って、真っ直ぐに扉の前へと、歩を進める。
部屋番号を押して。
呼び出して。
それでも、応答がないことに、眉根を寄せた。
応答がないという、それは。
彼女が部屋にいないということで。
外に出ている、という、その意味を示していて。
「………」
仕事かもしれないし。
プライベートで、誰かと会っているのかもしれない。
暗くなった外と。
わずかに瞬きはじめた星を視界に収めて。
少しぐらい、待ってみるか、なんて。
壁に背を預けた。
すぐに帰ってくるという、保証も。
今日、家に帰ってくるという、確実なものも。
何もないのに。
それでもなぜか、すぐに帰ってくるんじゃないか、なんていう考えが、ずっと俺の中にあって。
じっと見ていた空から、視線を伏せる。
そう言えば、ここには氷室先生も住んでるんだったな。
思い出して、息を吐く。
そこに行っているのだとしたら、ここは通らない。
考えて、また息を吐いた。
のだけれど。
開いた扉に、俺は顔を上げた。

ポストの方へと歩いていった姿。
そのそばにいた人物に、どうしようかと一瞬、考えたけれど。
「何しに来たのよ?」
見つかって、そう問いかけられたことで、吹き飛んだ。
「おまえこそ」
「アタシは玲の手料理を頂きに来たの! アンタは?」
「………」
会いに来た理由なんて、ただ一つで。
彼女でなければだめなのだと。
それを確認しに来たという、ただそれだけのことで。
紗枝ではだめで。
ほかでもきっと、だめかもしれなくて。
――だから。
そんなことを考えていると。
視界に。
藤井の向こうに。
彼女の姿が入った。
目を細めれば、藤井が振り返る。
「玲…」
「ん?」
「…………」
笑んだ彼女に、藤井は黙る。
表情は見えないから、黙った理由は、定かではなくて。
それでも、彼女は俺へと、瞳を向けてくれた。
「何しに来たの?」
その問いには、俺はまた、答えを発せないまま。
言えば必ず、藤井は何かを俺に言うだろうし。
彼女はきっと、痛みを伴ったような笑みを浮かべて、俺から視線を、逸らしてしまう。
だから俺は、瞳を背けることしか、できなくて。
「何か相談?」
「………」
畳みかけられても、結果は同じ。
返事は出せない。
返せない。
彼女からの、痛いくらいの視線にも。
藤井からの、訝しむような視線にも。
答える術を持たないまま。
俺はわずかに、瞼を伏せた。
その時。
「玲?」
藤井の声が、届いた。
視線を上げれば、彼女の足音も、耳へと届く。
「ごめん、今日は二人とも帰って」
「でも……」
振り返っての言葉に、藤井が俺を見る。
その視線から逃げるように、視線を床へと落とした。
彼女はそんな俺に、小さく失笑して。
チャラ…と、鍵の音を立てる。
「本当にごめん。それじゃ」
扉が開いて、彼女がひとりだけで、中へと入っていった。
真っ直ぐに階段へと向かって。
その背中に、藤井がもう一度、彼女の名前を発する。
その声を聞いてから。
背中が見えなくなったのを、確認してから。
俺は踵を返した。
……の、だけれど。
「ちょっと待ってよ!」
腕を取られて、引っ張られて。
俺は足を止めざるを得なくなる。
「?」
「アンタは何で、ここに来たの?」
「………」
問われて。
それでも、藤井に言うことではなかったから。
俺はその手を振り払って、歩き出した。
「葉月!」
呼ばれても、足を止めずに、歩いて。
「答えてくれてもいいじゃない!」
金切り声を上げた藤井に、眉根を寄せて。
俺は足を止める。
追いかけてきていた、その足音も止まって。
「葉月?」
「会いたかったから…だろうな」
「………」
「たぶん」
それだけを口にしてから、また歩き出した。
自動の扉が開いて。
俺は外へと、出ていく。
どこへ行こうかと考えてから。
とりあえずまっすぐ、家へのその道へ、車を乗せた。

暗闇はどこまでも続いていて。
やっぱり、このまま行っても。
橋なんかないんじゃないかと、そんなことを思っていた。
聞こえるのは川の、その水が流れる音と。
自分のと、もう一人の、足音。
そして、ロープの軋む、その音。
「かわにはいれないように、ろーぷがはってあるの」
そう、少女は口にしていた。
「だいじなものをなくしたひとが、はいらないようにってことみたい」
そんな風に。
けれど、こちら側には、いくら歩いてもそんなものはなくて。
橋を渡るよりも、川の中に入って横切った方が早いんじゃないか。
そう考えてもいたけれど。
「けっこうふかいみたいだよ? だってそこ、みえないでしょ?」
提案は、その言葉で流される。
底は確かに見えなくて。
かなり深いのかもしれなかったけれど。
足元しか見えないのでは、わからない、と言った方が正しかった。
川へと視線を向けて。
下流へと、滑らせて。
息を吐く。
流れは速い。
それだけは、見える範囲が狭くても、わかること。
深いかもしれないけれど。
それは実際には、誰も見ていないから、わからなくて。
だったら。
そうしてみるのも、手かもしれない。
半分以上、命懸けだけれど。
でもどうせ、これは夢。
夢なのだから。
夢の中で傷ついたとしても。
現実世界ではきっと、何も起こっていないだろうから。
何も起こっていないに、等しいだろうから。
「はし、みえないね?」
声が響いて、瞳を向こう側へと向ける。
暗闇しか見えない、広がっていない、その中に。
少女はいるはずで。
「そうだな」
俺は、考えていたことを表に出さないように、そう言葉を発した。
俺が傷ついたら、少なくとも、少女は悲しむかもしれなくて。
川の中に入って渡る、と。
そう口にした時。
少女は心配そうに、「やめたほうがいい」と、そう言った。
だからきっと。
まだ俺が、その考えを持っていることを知ったら。
少女は悲しむのかも、しれなくて。
だから俺は。
その考えを口にすることをできずにいる。
けれど、少女と一緒に橋を目指しているのだから。
行動に移すこともきっと、ないのかもしれなくて。
「大丈夫か?」
「?」
「傷。痛いんだろ?」
「うん。けど、へいき」
おにいちゃんにあいたいもん。
届けられた言葉に、ほっとして。
足音を聞きながら、また。
ゆっくりと橋を目指して、歩き続けていた。







一週間後。
目が覚めてみたら、そこは見慣れた光景だった。
家に帰るのが、なぜか酷く、億劫で。
彼女にも、紗枝にも会うことなく。
俺は、目の前の仕事だけを片づけ続けていた。
だから、帰るのが億劫だと感じたのかもしれない。
どうせ明日も、仕事だ、とか考えて。
疲れていたから、少しだけ、仮眠を取るつもりでいたのに。
ぐっすりと眠ってしまっていたらしくて。
深く息を吐いて、手荷物を纏めて。
楽屋を出た。
擦れ違うスタッフに、軽く頭を下げながら、歩いていく。
家に帰って。
その前に、どこかで食事でもするか、と考えた。
その途中。
階段に差しかかった辺りで、その後ろ姿は、目に飛び込んできた。
見間違えるはずはないけれど。
「玲?」
そう、声をかけた。
外へと向けていた視線は、俺の方を向いてくれて。
それに、本気でほっとしてた。
尽がそう言えば、仕事だとか言ってたな。
思い出して。
それを見に来たのか?
そう、結論を出した。
だとしたら。
眠り込んでしまった自分を、誉めたくもあって。
「葉月くん…、徹夜明け?」
「まぁ、そんなとこ」
「控え室で寝ちゃって、起きたら朝になってた、とか?」
「………」
その通りだ、とも言えずに、黙り込む。
と、彼女はくすくすと笑って。
俺は小さく、笑みを浮かべた。
視線を逸らすんじゃなくて。
気になるのか。
彼女はまた、外へと視線を戻す。
「全部散っちゃうかもね」
言葉に、彼女の視線の先を追いかけて。
そこにあったのは、一本だけ佇んでいる、桜の樹。
雨の中、それはわずかに、淡い色を保っていたけれど。
「そうだな」
さすがにもう、無理だろうな。
考えて、そう返した。
そうすれば、彼女の視線を感じて。
でも俺は。
まだ桜の樹を眺めていた。
何となくだけれど。
不意に伸ばされた手には、彼女自身も、気づいていないようで。
俺はそれを、取ってもいいものかどうかを、考えていた。
たぶん、彼女の瞳を正面から見てしまったら。
絶対、その手を取ってしまうだろうから。
「傘、持ってきた?」
「…車」
「あ、そっか」
問いに、やっぱりそれでか、なんて思う。
傘がないから、彼女は帰れない。
だから、ここにいる。
「送ってやろうか?」
「え? あ、でも……」
熊谷さんが……。
軽い、ノリみたいなものだったはずの、会話の流れの中。
それが続くことを遮断するみたいに紡がれた名前に。
俺は深く、皺を刻んだ。
熊谷ってやつのことは、知ってる。
彼女に言い寄ってる、男。
結婚、してるくせに。
「………」
考えて、彼女を見る。
俺から視線を逸らすみたいにして、床へと落とした、その彼女にも。
どこか。
何か。
怒りにも似た気持ちが込み上げて。
すっかり下がってしまったその手を、俺は掴んだ。
誰にも渡さない。
強く握って、足を踏み出して。
けれど、彼女は後ろへと、わずかに体重をかけて、動くことを拒んでいた。
「葉月くん…!」
「送る」
「けど、さっき……」
「おまたせ!」
遮った声に、行動を止める。
目の前にいるのは、黒い傘を差していた、男。
熊谷徹。
その傘を閉じてから、そいつは俺を見て。
浮かべていた笑顔を、さっと消した。
「葉月くん、君、自分がしてること、わかってる?」
静かな、その問いかけに。
彼女は俺のものだと。
そう、知らしめるみたいに、手に力を込めた。
握り返してはくれない、その手を掴む、俺の手に。
「君が送らなきゃいけないのは、玲ちゃんじゃないでしょう?」
「あんたには関係ない」
「関係あるね。俺は玲ちゃんの彼氏に立候補中なんで」
「結婚してるだろ?」
「それなら君には、恋人がいる」
「………」
「紗枝ちゃんは今、撮影中だよ。君はそれを待っていて、送ってあげるのが道理だ」
紗枝はもう、どうでもいい。
そう、言いたかったけれど。
紗枝自身にも、まだ話してはいなくて。
俺は視線を鋭くする。
ほしいのは彼女。
彼女だけで、いい。
昔の彼女にそっくりな、紗枝は。
もう、俺の中では、どうでもよくて。
触れたいと思うのは、彼女だけ。
だから、彼女以外は、どうでもいい。
「………」
何も言えないままでいると。
目の前の表情が動いた。
俺を静かに見ていた、無表情だったはずの、それが。
瞳が動いて、笑みへと変わる。
それに、彼女を見て。
俺ではないやつを見ていた彼女の手に。
また、力を込める。
俺は無理矢理、彼女を引っ張って、歩き出そうとした。
……けれど。
「ちょっと待ちなって」
目の前に立たれて、止まらざるを得なくなって。
俺はまた、熊谷を睨む。
こいつさえいなければ。
俺は彼女と一緒に、過ごせていたはずで。
だから。
「そこ、退け」
「嫌だね」
「………」
「君にはそんなことをする資格はない。君がそんなだから、玲ちゃんは動けずにいる。君は立場を明確にすべきじゃないのかな?」
言われて、また。
何も言えなくなる。
今の俺の立場が明確かと言えば。
決して、そんなことはないだろう、とは思う。
俺の中ではもう、確固たるものになってはいるけれど。
だからと言って、それを口に出すのは、躊躇っている。
紗枝のことは、どうでもいいけれど。
それでも、できれば。
傷つけたくは、なかったから。
『あき』を、傷つけたくは、なかったから。
「玲ちゃんのそばにいることを止めたのなら、恋人を作ったのなら、君はもう、彼女に甘えることを止めるべきだ」
「……俺がどうしようと勝手だろ」
「確かに。でもそれに、彼女が巻き込まれるのを見ていられない」
「………」
「今の玲ちゃんには、彼女だけを見つめ、支えてあげる人間が必要なんだ」
「それがあんただって言うのか?」
「さぁね、それはわからない。でも、君にはその資格はないということだけは、はっきりしてる」
「………っ」
「玲ちゃん、帰ろう。送っていくから」
確かに、そうかもしれない。
俺に。
一時的にでも、彼女よりも、紗枝を選んでしまった、俺に。
今の俺に。
彼女のそばにいる資格は、ないのかもしれない。
その証拠のように、彼女の手は、俺の手を抜け出して。
俺が掴んでいた、その手を、彼女はじっと、見つめていた。
できることなら、もう一度。
その手を取って、歩きたいのだけれど。
熊谷が、逆の手を取って、彼女を連れていってしまった。
彼女は後部座席に押し込まれて。
熊谷が運転席へと滑り込んで。
その、黒塗りの自動車は、走り出していった。
彼女は一度も、残された俺を、見ないままで。
「……っ!」
俺は、声にならない思いを、そこで一度だけ、吐き出した。

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