ざーざーと雨が降りしきる
その音の中透明な
雫の中
映ったその色に
俺は目を見開いた
透明な水溜まりに
赤い点
突然、鳴り響いたチャイムに、俺は窓から視線を外す。
今日は誰かが来る予定もなかったはず…と考えながら。
窓から真下にある玄関を見た。
誰かがいるような気配はなくて。
いたずらか?
とは思ったけれど、俺はベッドから降りる。
緩慢な動作で、階段を降りて。
靴を簡単に履いて、玄関の扉を開けた。
――彼女じゃないと、思っていた。
彼女なら、何度も鳴らすはずだから。
けれど、開けた瞬間に見えた姿は、彼女のもので。
彼女の、後ろ姿で。
茶色い傘を差して、玄関の、その、わずかな段差に腰かけていて。
「…玲?」
声をかければ。
弾かれたように、彼女は振り返って、俺を見る。
目には、涙を溜めていて。
それを拭った、彼女の手は。
わずかに、赤い色が着いていた。
「どうした?」
ゆっくりと立ち上がって、彼女は俺に、向き直る。
彼女がどこか、けがでもしているのかとも、思ったけれど。
そのことで、彼女は泣くような性格ではないと。
彼女の腕の中のものを見て、思い出した。
「ごめんね? 麻衣もまだ、帰ってきてないし。病院とかも、詳しくなくて……」
しゃくりあげることもなく。
静かに涙を流しながら、彼女は言って。
腕の中のものを、ぎゅっと抱き締める。
傷に、響かない程度に。
軽く。
それでも強く。
そんな彼女を家に上げて。
応急処置程度しかできないけれど、救急箱を持って、先にリビングへと行った彼女を、追いかけた。
どうすればいいかを迷っている彼女に、テーブルの上に、腕の中の猫を降ろすように言って。
俺は電話帳を手にする。
救急箱を傍らに置いて。
電話帳を、彼女のそばへと置いて。
台所へと、足を向けた。
ボールに水を汲んで。
リビングへと戻れば。
彼女が必死に、猫の頭を撫でていた。
小さく上げられた声に。
「大丈夫だからね?」
そんな風に、声をかけて。
「玲。動物病院、探してくれ」
「うん」
「俺が高校の時使ってた病院は、今日、定休日だから」
ガーゼを水で濡らして。
血を拭う。
痛そうに上がる声に、彼女は何度も、頭や顔を撫でて。
血が着かないようにしながら、片手で電話帳を捲っていく。
べつにそんなこと、気にしなくてもいいのに。
言えばきっと、彼女は謝罪の言葉を綴って。
それでも、気にしながら再開させるんだろうから。
俺は結局、何も言わずに、治療を続けてた。
見つけたのか、彼女は少しだけ、戸惑いながら、腰を上げて。
「手、洗ってくるね?」
小さく言って、離れていく。
戻ってきた時には、彼女はすでに、携帯でどこかに電話していて。
俺は、簡単に包帯を巻き終わっていた。
「駅の向こうの…O病院。知ってる?」
「地図は?」
「そこ」
開かれたままの電話帳を見て。
猫を抱きかかえた彼女の指が、その地図を示してくれる。
それを一度見て。
俺は車のキーを、掴んだ。
「何人かの男の子が、囲んでて。何やってるんだろう?
って、思って見てたら、この子が、足元にいて」
車の中で聞いた言葉を思い出して、俺は小さく、息を吐く。
動物虐待の話は、ニュースやなんかで、よく見聞きするけれど。
こんなに近くで起こっていたのは、知らなかった。
彼女が悪いわけではないのに。
ごめんね? という言葉を、何度も紡いでいて。
俺はそんな彼女の頭を、何度も撫でたり、叩いたりしてた。
その彼女は、俺の隣りで、じっと、診察室兼、手術室の扉を見ていて。
手は、無意識かもしれないけれど、俺の手を、掴んでいた。
その手を握り返していたのだけれど。
俺はその手を離して。
ぎゅっと、彼女を抱き締める。
「珪…?」
「ん?」
「血が…着いちゃうから」
「べつに、いい」
「………」
「大丈夫だ。絶対」
「…うん」
「人間のことだって、嫌いにはなってない」
「……うん」
「許してくれる。大丈夫だ」
「…うん」
流れてしまった彼女の涙を拭って。
俺はまた、ぎゅっと抱き締めた。
そうしていると、扉は開かれて。
「大丈夫ですよ。命に別状はありません」
医者が、そう言葉を発する。
それに、俺が緩めた腕に手をかけて。
彼女は大きく、安堵していた。
「少し、入院させます」
「あ、はい」
「あの子は、野良ですか?」
「そうです」
そんなやり取りをしながら、彼女は立ち上がって。
俺も、腰を上げる。
「あの、お金は…」
「いいですよ。野良は無料で見てるんで」
「で、でも」
「それに、あの子は人為的なものでしょう?
傷を見れば、大体わかりますし」
「………」
「せめてもの、謝罪ですよ」
「それなら、わたしにだって、荷担させてください」
「見つけて、ここに連れてきてくださっただけで、充分だと思いますよ?
それに、応急処置も、的確だった」
「……でも」
「退院したあとは? どうなるんですか?」
口を挟めば、医者は俺を見て。
里親でも捜しましょうか。
そう、紡いだ。
「里親…」
「それを手伝おう」
「気がすみません」
「でも、受け取ってもらえないだろ?」
「………」
「どうした?」
「珪は?」
「何が?」
「里親」
「嫌だ」
「…姫と同じ理由?」
「ああ」
「ウチにはもう、姫がいるし」
「だから、捜すんだろ?」
「もうちょっと寛大になれないのかな?
この人は…」
「無理」
「………」
失笑が降って。
彼女は黙る。
憮然とした表情でいたけれど。
俺も苦笑をしながら、彼女の頭の上に、手を置いた。
それからすぐに、奥から猫の声がして。
俺たちは奥へと、足を踏み入れる。
いくつも置いてある、ケージの中の一つ。
そこに、あの猫がいて。
彼女の姿を見止めて、顔を上げた。
ニャーなんて、声を上げられて。
彼女はにっこりと、笑みを零す。
「優しい人を、捜してあげるからね?」
間から、指を入れて。
指先で撫でて。
彼女はほっと、息を吐いた。
ほかの生き物――特に猫――には、彼女は極端に甘いから。
この結末は、わかっていた。
痛みは麻痺しているのか、猫は前足で、彼女の指を、必死に追いかけていて。
俺もまた、安堵の息を吐き出す。
それから、また来ることを伝えて、外へ出た。
もう、雨は上がっていて。
その空を眺めていたら。
頑張るぞ、なんて、彼女は決意を固めていて。
俺は小さく、笑みを零す。
「何ー?」
「いや」
「………」
「猫のことには、必死だよな、おまえ」
「…うん。だね」
「ああ。そう、思って」
鍵を開けて、ドアを開ければ。
彼女はまだ、そこにいて。
俺は少し、首を傾げて見せた。
「どうした?」
「…ごめんね?」
「? 何が?」
「猫さんのこと、ばっかりだったから」
「べつにいい。俺も、心配だったし」
「……ありがとう」
微笑った彼女へと、手を伸ばす。
それを取ってくれた彼女を抱き寄せて。
「明日から…で、いいか」
そう、耳元で囁いた。
「何が?」
「里親捜し」
「まぁ、今日はもう、時間ないしね」
「泊まっていけよ? 今日。その話もしたいしな」
「……猫さんのことよりも、それが目的のような気がするんですが」
「気のせいだろ?」
じっと顔を見続ける彼女を抱き締めて。
俺は答えを待つ。
髪を梳いて。
蒼い瞳を、覗き込んで。
そうしていると、彼女は深く、息を吐いたあとに、コクンと首を縦に振った。
ぽすんと、俺の胸にもたれて。
しょうがないなぁ。
なんて、呟いて。
彼女はただただ、俺の行動を、待ってくれる。
だからか、帰ろうというその言葉が。
口にできずにいた。
END
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