この日がそうなのだと、知らされなければ。
きっと、去年までと同じように。
その日は来て。
何事もなく、過ぎ去っていったに、違いない。
eulalia
隣りを歩く彼女は、視線を常に動かし続けていて。
それでも時折、話題を振ってくる。
もちろん、今いる場所について、だけれど。
「はば学も変わっていくんですねー。やっぱり」
「それはそうだ。常に変わらず存在しているものなど、ありはしない」
「ですね。それはよくわかってます」
くすくすと笑って、彼女、田端玲――結婚して、今は葉月なのだけれど。ややこしいから田端でいいと言われている――は、視線を上へと向けた。
わずかに。
それを追って、私も視線をそちらへと投げる。
「何か悪いですね? 先生、部活中だったのに」
「構わない。今日は自主練習だからな。本当は私などは、いない方がいい」
「そうですね。部の結束とか、そういうことを考えると、氷室先生とか、中里先生はいない方がいいんですよね」
一人で頷いて、それから笑う。
視線は変えずに、手を挙げたと思ったら。
田端は小さくそれを振った。
理由はわかっている。
彼女が窓際にいて、こちらに気づいたから。
けれどすぐに、彼女は生徒に呼ばれたのか、音楽室の中央へと、姿を消した。
「――田端」
「はい?」
呼んだのにも関わらず、田端の視線は外。
向かいの校舎の五階に、注がれている。
それでも構わないと、口を開いた。
「質問がある」
「氷室先生が僕に質問って…珍しいですね?」
私の方を見て、田端は顔を覗き込んでくる。
どこか、裏のあるような笑みで。
目は、笑ってはいない、そんな笑みで。
「そうだな。それと、これから私が言うことは、他言無用だ」
「ってことは、中ちゃん先生関連ですか?」
にこっと、笑みを濃くして、田端は言う。
黙っていれば、彼女は肯定と取るのに。
それを知っているのに。
反論できずに、短く、小さく、息を吐いた。
「まぁ、わかりますよ」
視線を前方へと戻して、彼女はふっと微笑う。
それに眉根を寄せたのだけれど。
田端は気づかずに、言葉を綴った。
「中ちゃん先生の誕生日、あと一週間ないですもんね?」
「は?」
「……?」
間抜けな声を出してしまったことに、慌てて口を塞げば。
田端はじーっと、視線を注いでくる。
足を止めて。
ただただ、じっと。
「知らなかった…んですか?」
「………」
「知らなかったんですね?」
「……そうだ」
「これまでずっと?」
「…そうなる」
「………」
「本人から、直接は聞けないだろう?
あの性格なのだから」
「…遠慮するでしょうね。完璧に。で、もちろん、誤魔化して教えないでしょうね」
「それに…彼女の周りから聞けば、勘ぐられる」
「嫌なんですね? 周りに知られるの」
「当たり前だ」
視線を逸らせば、彼女は笑って。
笑みを零して笑って。
「先生、耳まで真っ赤」
小さく落とされた声に、何とか平静を保とうと、腕を組んだ。
瞼を伏せれば、笑いは止む。
「一週間、ない…か」
「ないです。今週の金曜日ですよ。誕生日」
「………」
「聞きたかったことって、それですか?」
黙ったままで、とりあえず歩きはじめる。
どこに行くのかはわからないのだが。
とりあえず。
田端も歩き始めて。
二人分の足音が、廊下に響く。
「何を贈ればいいと思う?」
「それは先生の好きですよ。僕に教えを請うものじゃないと思います」
「………」
「それに。僕と中ちゃん先生は違い過ぎるので。僕の欲しいものは、参考にはなりません。ちなみに」
「………」
「――経験豊富そうなんですけど」
「誰のことを言っている?」
「氷室先生」
「……そう…見えるのか? 君には」
「とても」
「………」
「女性と付き合ったことはありますよね?」
「ないと言うことはない」
「…微妙な答え……。じゃあ、それを参考にしてみたらいかがですか?」
「………」
「合っている、とは言いませんけど。むしろ」
間違いだとは言いますけど。
加えられた言葉に、深く眉間に皺を刻む。
どうすればいいのかがわからなくて、また足を止めた。
廊下へと視線を落として。
考え込んで。
「何をあげても、喜ぶとは思いますよ?
中ちゃん先生だし」
「…だが……」
「まだ四日半あるんですから。頑張ってください」
にっこりと笑って、田端は歩を進め出した。
歩きながら、携帯を取り出したところを見ると、どうやら今日は、これで帰るつもりらしい。
その背に、また、深く息を吐き出した。
あと四日。
今日を入れれば、あと五日。
かつての生徒に、教えを請うのもどうかとは思ったけれど。
結局、答えは出ないまま。
「金曜日…か」
呟いて、それからゆっくりと、歩きはじめる。
不意に見上げれば、彼女の背中が、そこにはあった。
「それで、俺にもってことか」
「そうだ」
言葉を発すると同時に、目の前で出されたものが、カランッと音を立てる。
出来ることなら、相談などはしたくはなかったのだが。
思いつつ、カウンターのその席で、手を組んだ。
「どうすればいいと思う?」
「俺も玲ちゃんと一緒だな」
「?」
「俺に聞くな」
笑みを浮かべて、益田は言う。
やはりか。
短く、息を吐き出せば。
益田はくすくすと笑い始めた。
「せっぱ詰まってるな、零一」
「…かもしれん」
「本気ってことだな。ちょっと残念」
「………」
「しかし、花織ちゃんの欲しいものねー…」
手を動かして、益田は零す。
益田は店主として、女性に接する機会も多い。
だから聞いてみたというのもあったのだが。
益田の歯切れは、かなり悪い。
「玲ちゃんは、今までのは参考にするなって言ったんだろ?」
「そうだ」
「…あの子がそう言ったのか?」
「いや。参考にしてもいいが、合っているとは言わない。そう言われた」
「………」
「何だ?」
「それって、逆で考えればいいんじゃないのか?」
「逆?」
踵を返して、益田は棚へと手を伸ばす。
一本のボトルを手にして、戻ってきて。
器用にその蓋を開けた。
「つまりだ。花織ちゃんは、そんじょそこらの女達とは違って、ブランド物だの、アクセサリーだの。そういうのは欲しがらないってこと。確かに彼女、そういうのにはこだわりなさそうだしな」
「…なるほど」
確かに、普段の彼女からは、そう言った印象は受けない。
あまりきらびやかなものも、身につけてはいなかった気がする。
教師という、その職業もあるのかもしれないが。
「そうなると…何がいいんだろうな?
普通に、プレゼントとして思いつくものは駄目ってことだからなー」
琥珀色の液をグラスに注いで、益田は零す。
だが、そこまでわかれば。
充分だ。
「ま、零一がいいと思うんなら、いいんじゃないか?」
「俺もちょうど、そう思っていたところだ」
言えば、益田は目を見開いて。
それからまた、くすくすと笑っていた。
「急に強気」
「そうだな」
「でもなー…、言っていいか?」
「言いかけて止めるのは、聞かせたいという心理状況が働いているから…だな」
「………」
「言いたいのだろう? 何だ?」
「――おまえがくれるモンなら、何だって受け取りそうだけどな、花織ちゃん」
「…そうか?」
「この際だ。花織ちゃんをおまえの色に染めちまうってのは?」
「それは、賛同しかねる」
「理由は?」
「今の彼女を好きだから、に…他ならない」
「……だろうな」
呟いたあとで、益田は上半身を起こす。
両手を開いて、カウンターに手をついて。
わずかに背を逸らしながら、指先でそこを叩いて。
そうしている益田の表情は微妙。
それを見ながら、ゆっくりとグラスを傾けていた。
部活が終わって、すべての生徒が帰路に着いたのを見届ければ。
辺りが闇に支配されてしまうのは、もう仕方のないことで。
考えながら、ピアノの蓋を、ゆっくりと下ろしていく。
閉めたあとで、彼女の姿を、視線で追えば。
彼女は窓際で、空を見上げていた。
言葉を発することはせずに。
「中里先生」
「え? あ、はい! 終わりました?」
「見ての通りだ」
椅子の位置を直して、彼女に言う。
と、彼女は窓を背にして、にっこりと笑っていた。
鍵を手にして、外に出るように促す。
「この時期になると、みんな。上達しているのが、目に見えてわかりますね?
この部に入って、初めてその楽器に触った子でも」
「少し…遅いとも思えるが……。それぞれ、自分のペースというものがある。急かすべきではないのだろう」
「そうですよ。とりあえず、目下の目標は、文化祭ですね。そのあとでしたっけ?
コンクール」
「それに出場するかどうかは、文化祭の出来を見てからにしたいと思っている。だが……」
「いけそうですよね? 上位入賞」
嬉しそうな顔に、頷いて見せて。
音楽室の鍵を閉める。
準備室へと入って、荷物を纏めれば。
彼女はまた、窓の外へと、視線を投げていた。
名を呼べば、すぐに気づいてくれるけれど。
「何か?」
「え?」
「さっきから、外を見ている」
「あ…えーと……。ただ、綺麗だなーと、思って…」
言葉に、隣りへと歩を進めて。
同じように、空へと視線を向ける。
雲のない空には、確かに星が、瞬いていて。
「ちょっと…嬉いなーと」
呟かれた言葉に、視線の先を彼女へと移した。
気づいて、にわかに見上げられた瞳と、ぶつかって。
それでも彼女は、嬉しさの理由を言うわけでもなく、微笑う……ばかりで。
「屋上の鍵を、取ってくる」
「え? 屋上…?」
「ここからよりは、見えやすい」
荷物を手に、準備室を出れば。
彼女はまだ、そこにいて。
早くしなさい、と声を掛ければ。
慌てたように、彼女は廊下へと、駆けてきた。
荷物をドアのそばへと置いて。
彼女は、ただただ、星空を見上げていた。
ゆっくりと歩を進めて。
コンクリートの塀まで、歩を進めて。
そこで、視線は前方を向いて。
下にも、向けられて。
徐にそれは、私の方を、振り向いた。
「何か、職権乱用? ですか?」
「確かに」
昼間、生徒達のためにと、屋上は解放されている。
が、この時間ともなれば、鍵は厳重に締められているはずで。
それを開けてしまったのだから、彼女が言うように、職権乱用、なのかもしれない。
彼女が置いた荷物の側に、私の荷物も降ろして。
それから、彼女の隣りへと、歩を進めた。
満天の、とは行かないまでも。
今日は星が多い。
それに、嬉しそうに笑っている彼女の横顔に、わずかに笑みが浮かんだ。
「あ、そうでした。氷室先生」
「?」
顔を向けた彼女は、しばし、思案したようで。
それでも、疑問を口にした。
「明日、音楽室も解放…しないんですか?
終わる前に、おっしゃってましたよね?」
明日は、土曜日で、学校は休みで。
普通ならば、自主練習のためにと、鍵を開けておく。
しかし、明日は別。
明日はここに、来ないつもりでいるから。
「しないつもりだが?」
「理由をお聞きしてもいいでしょうか?
明日、氷室先生はご用事が?」
「特にない」
「…?」
「君が…あるのではないか?」
「…え? いえ、特には……」
「そうなのか? 今日が君の、誕生日だと聞いたのだが」
告げれば、彼女は大きく目を見開いて。
「違ったか?」
「い、いいえ! 合ってます!」
「………」
「でも、祝うほど、嬉しくもないですし。みんな、その辺りのことは、わかってますから」
「しかし、私は祝いたい」
内ポケットから、長方形の箱を取り出す。
いつ渡そうかと、ずっと機会を狙っていたのだが。
結局は、こんな時間。
「これ…」
「誕生日プレゼントだ。いらなければ、捨ててくれて、構わない」
「そんな…! そんなこと、出来ません…」
緩く、首を横へと振って。
彼女は否定の言葉を綴る。
受け取られたことに、嫌われてはいないと気づいた。
わかっていたことだけれど、それを再確認して、ますます嬉しくなる。
「それと」
「? はい」
「明日…用事がないのであれば。ドライブに付き合ってもらえると、助かるのだが」
「は、はい! お付き合いします!」
言ったあとで、彼女は自分の発した言葉にくすくすと笑い出す。
それに、つられたように笑って。
また…話をして。
離れがたいと、本気で思っていた。
END
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