ちょっと待って!
…なんて、本気で思ってた。
いや、あの……。
嬉しかった、けど…ね。
Engel
「はい。それじゃ、来週。……。はーい!
それじゃ!」
電話を切って。子機を置いて。
わたしは一つ、息を吐く。
来週の月曜日ー。
なんて思いつつ、開いていた手帳にそれを書き込んでいく。
この日に、諸岡さんと打ち合わせ。
書き終えて、よしっ、なんて声を上げて。
手帳を閉じようとした、その時に。
それに――気づいた。
「?」
あれ?
今月も――そろそろ終わる。
のに、あの記号が書かれていない。
指で確認して、わたしは首を傾げた。
………。
書き忘れた?
いや…、そんなはず……。
思いながら、とりあえず。
ページを一つ、戻してみる。
いくら忘れっぽくても、彼と付き合いはじめた頃くらいから書きはじめて、忘れないようにしてたのに…。
とか思っていたら、そのページにもなくて。
わたしはしばし、固まってた。
うそぉ!
青ざめながらも手帳に目を向け直す。
調べてみたら、二ヶ月も前に、その記号は書かれてあって。
そこから先には、書かれていなくて。
二ヶ月も忘れるなんてこと、わたしでもあるのか?
なんて思う。
大切なことだし。
二・三日、書く事を忘れていたとしても。
手帳を開けば、思い出して、書いてたしなぁ。
なんて、今までの行動を思い返してた。
んじゃ、なかった…とか?
そんなわけ……。
思い出そうとして、また固まる。
だって、薬使ってるじゃん!
って、考えたけど。
一週間だけ、薬が切れてしまった時期があったことを思い出したから。
瞬時に思考は止まってしまって。
わたしは大きく、頭を振る。
壁に張ってあるカレンダーを振り返って。
目の前まで寄って、指でなぞって。
「…………」
ま…さか……。
一つの考えにぶち当たらざるを得なくなって。
というか、それしか考えられないんだけど、一生懸命、違うって否定してた。
そう。それでも。
いやいや。確認しないことには、まだ何とも!
希望はもう薄いのに。
とにかく、わたしは鞄を掴んで、そのまま家を出た。
バタン、と扉が閉められて。
わたしは顔を上げる。
診療だの、質問だの。
そういうのが終わったあとで、グルグルと思考を働かせていた。
それを遮った、その音に。
上げた視界の、その…視界に入った先生の顔は笑顔。
みょ〜……っに、笑顔。
「うふふー」
「え、えへ?」
声を漏らした先生に合わせることもできずに、わたしは苦笑で言葉を落とす。
と。
「諦めな」
短い言葉。
荒っぽい、男の人みたいに紡がれた、その言葉に。
わたしの苦笑は、もちろん、凍り付いて。
「あ、諦めろってー」
「人類にしてみたら、おめでとう。おまえにしてみたら、残念でした」
「…マジですか?」
「マジ。何だね。一生懸命、ピル使って。作らないようにしてたのに?
薬が切れちゃって、取りに来られなかった。その隙を突いて――出来ちゃった、てんだから…。うーん……。相性いいんだねぇ。あんたらは」
「何のですか!? 何の!?」
「もちろん、身体だろう」
椅子に座って、先生は言う。
女性なんだけど。
わたしよりも、男っぽい。
前に聞いたら、男所帯で育った、とか言ってたっけ。
思い出して。
でも、そんなことを思い出してる場合じゃなくて。
「気づくのが遅かったようだが。まぁ、大丈夫だろう。けど、薬はもう、使うなよ」
「…はい」
「それと、ダンナにも言っとけ。どうせ産むんだろうから」
「そりゃ、まぁ……」
「?」
言い淀んだわたしに、先生は顔を渋面へと変える。
目の前で、先生はその長い足を組んで。
腕も組んで。
「欲しくなかったのか? ま、欲しけりゃ薬なんか、使わなかったろうけど」
「………」
「結婚する前は欲しいって言ってたな。でも、葉月の事務所の方が結婚するまではだめだとも」
言葉に、頷く。
先生には全部話してあるから。
そういう細かい部分でさえも、知ってる。
「でもあれか? 結婚したら、欲しくなくなったか?」
「………」
思いっきり、図星。
だからわたしは、何も言えない。
彼はそうだけど、どうやらわたしも、独占欲、強かったらしくて。
放っておかれると、どうにも嫌。
目の前からため息が聞こえて、わたしはわずかに顔を上げる。
「けどな。もう一回言うぞ? 諦めな」
「………」
「んじゃ、堕ろすか?」
「嫌です!」
「じゃ、諦めな」
『堕ろす』って言葉に、瞬時に反応して。
否定の単語を綴ったわたしに、先生は笑って、そう言ってくれて。
だって…さ、殺しちゃうってことでしょ?
そんなこと、したくない。
せっかく…生まれたのに。
外には出てないけど。
この場にはもう、存在しているんだから。
「身体、冷やすなよ。夜更かしも出来るだけするな。――ま、こういうのは結構。ダンナの方が知ってるからな」
「? そう…ですか?」
「そうそう。子供が出来ることを楽しみにしてるのは、男の方が上なんだよ。でな。そういう男は普通に調べてるんだな」
嬉しそうに微笑って、先生は語る。
「院長先生がそうだったんですか?」
それに突っ込んでそう聞けば。
先生は一瞬、黙り込んで。
「まぁなー。あいつはそうだったな」
なんて、臆面もなく、言ってくれた。
「仕事があったんでな、二人とも。子供なんて、邪魔なだけだと思ってたんだ。少なくとも、あたしはな。でも、向こうはそう思ってなかった。…っていうのも、出来たっていうことがわかったあと、知ったんだけどな」
「へぇー…」
「言った瞬間、すごかったな。やらせてもらえることが、制限されていくんだ。重いものを持つな。仕事もするな。出来れば何もするな…ってな」
「えー!?」
「けどな、それも全部、あたしと子供のことを心配してのことだろ?
そう思うと、嬉しくてな。最初こそ、反発してたが…それに気づいてからは、素直に従ってやってたよ。多分――あんたのとこも同じだろう」
言われて、少し、面食らう。
そう。
彼が本当は欲しいって思ってるってこと。
はっきり言って、それはないと思う。
だから。
「言えばわかる」
反論を口にしようとしたわたしに、先生は言って。
「だいたい、本気で惚れた相手との子供だぞ?
嬉しくないはずはないと思うけどな」
先生の言葉に、黙り込む。
それはもちろん、嬉しかった。
嬉しかったけど、複雑で。
だって。
わたしはわたしで、子供は子供。
子供が可愛がられていたとしても。
もちろん、嬉しいだろうけど。
それはわたし自身ではないから。
淋しさを感じてしまうかもしれなくて。
「とにかく! おまえは葉月に言え!
いいな!?」
指を間近で差されて、わたしは驚いて。
少しだけ身を引いた状態で、こくこくと頷いてた。
さて、何て言おうか?
台所に立って、ぐるぐるぐるぐる考える。
言う気はある。
いつまでも隠しておくわけにもいかないし。
結婚してるんだし。
もし、欲しくなかったとしても、堕ろせ、とは言わないと思う。
言ったらひっぱたいてやるけど。
「…うーん」
しばし、手を止めて考える。
麻衣はなんて切り出したんだろう? 光太さんに。
……急に、「喜んで」とかって言ったっぽいな。
「喜べ」って。
「何で?」って聞かれても、「いいから喜べ」って散々命令してから、白状してそう。
もしくは、黙ってたか。
何もしないで、指図ばっかりして。
で、どうしてかを聞かれて、あっさり言ったか。
「……そっちのが麻衣らしい気がする…」
考えて。
結局、他人は当てにならないなーって、結論を出す。
もし、わたしがそうやったとしても。
いつかは我慢ならなくて、手を出してそうだもん。
お腹が目立つまで、言う機会を逃してそうな気もするし。
だから、麻衣と同じ手は使えない。
だって、わたしはわたしだ。
わたしだからこその伝え方ってものが、あるはずだから。
煮え立ちはじめた鍋に、わたしはゆっくりと視線を上げた。
とりあえず、遠まわしにでも言ってみようか。
そんな風に決めて。
わたしは食器棚へと踵を返す。
と、玄関の鍵を開ける音が鳴り響いた。
鍵を差し込んで、回す音。
キッチンから顔を覗かせていると、扉が開く。
「ただいま」
「おかえりー」
声をかけると、彼は顔を上げてくれて。
その彼に、わたしはひらひらと手を振った。
歩いてくる彼から、視線を逸らして、キッチンへと戻る。
「ご飯、待ってね?
あとちょっとだからさ」
「ああ」
食器を出しながらの言葉。
それに答えてくれた、背中からの声に、わたしは微笑う。
布擦れの音が途絶えると、今度は足音。
来たなって思うと同時。
腰にスルッて、彼の腕が回された。
肩に少し、重み。
「なぁに?」
「夕飯」
「もう少しだから、待っててって言ったでしょ?」
くすくす笑いながら、手を動かしていく。
もうほとんど終わりだから。
彼が後ろにいるのは、邪魔にはならない。
今…言っちゃおうかな?
考えて。
「質問、してもいい?」
そう、言葉を発した。
「?」
「質問」
「…ああ」
「今、ここに何人いる?」
言ってから、ちらりと彼を見れば。
深く深く、皺を寄せていて。
わたしはとりあえず、火を止めた。
「答えは?」
「二人…だろ?」
「ブー」
「………」
彼は後ろを振り向いて。
ほかに誰か…何かいないかを確認する。
「猫…?」
「どこに?」
「…買ってきた…とかじゃないのか?」
「ダメって言われてるのに、買ってこないよ」
笑いながら、わたしは身体を反転させる。
彼の真似をするように、わたしも彼の腰に手を回して。
顔を見上げた。
彼はまだ、眉間に皺を刻んだままで。
「それに、わたしは『ここ』って聞いたの。家の中とか、そんな風には聞いてません」
「……ここ?」
「ここ」
わたしは彼の顔を見続ける。
彼もわたしの顔を見ていたけど。
訝しむように見ていた瞳を大きく開いた。
ゆっくりと膝をついて。
やっぱりやるんだ?
思っていたら、その通り。
わたしのお腹に、耳を当てた。
「まだじゃない?」
「べつに、いい」
金色の、その髪を梳いて。
嬉しくて。
「いい? 産んで」
「当たり前だろ?」
「うん」
「それより、聞いていいか?」
「何?」
「薬…使ってただろ? おまえ。それなのに……」
「あのね。一回、使ってなかったって言うか。持ってなかった時期があったの。仕事が忙しくて、取りに行けなくて。買いにも行けなくて」
「その時……?」
「そう。一回ぐらい、平気かなーって思ってたんだけど。ダメでした」
彼が上を向いて。
下を向いていた、わたしの視線と、かち合って。
彼はわたしに体重を預けないように、またゆっくりと立ち上がる。
「出来ちゃったね?」
「だな」
「どうしようか?」
「?」
「何人ほしい? この際だし、一人も二人も同じでしょ?」
「ああ…。もう、使わないってことか、薬」
「そう。だって仕方ないしね。っていうか――どっちがいい?」
「おまえに似てるなら、どっちでもいい」
「わたしは、君に似てる方がいい」
「じゃあ、最低二人、だな」
「だね」
二人で笑って。
キスをした。
本当は…なんていうのはわからなかったけど。
彼も嬉しそうだから、それだけで、わたしは満足していて。
けれどやっぱり。
わたしの行動は制限されていく。
「座ってていい。そっちじゃなくて、ソファの方。諸岡さんには連絡しとく。俺」
「………」
「CFの方の仕事は? 入ってるのか?」
「うん」
「じゃあ、撮りの日は一緒に行く。俺も」
「…珪の仕事は?」
「俺が仕事の日は、藤井に頼む。一人で出歩くなよ?」
彼の言葉に驚きながらも頷いて。
それから…なんて、綴り出した彼に。
一人でずっと、笑ってた。
END
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