迎えは本当に突然、やってくる。
目の前に差し出された大きな手を振り払って。
俺は約束の場所へと踏み込んだ。
毎日毎日、あいつと会った場所。
そして――これからも、約束の場所。
笑顔の時 3
「あ! 遅いー!」
森を抜けた途端、そう声をかけられて、少年は肩で息をしながらも「悪い」と小さく呟いた。
少女の笑顔を確認して、今日は…さっさと中へ入ろうとする。
「どうしたの? 今日は中で遊ぶの?」
「ああ。ちょっと…な」
風が吹く。
森は何かを話すようにざわめき、二人が中に入っていくのを見届ける。
ほんの少し。
ほんの少し…わずかな間だけでいい。
「弟、元気か?」
問えば、少女はまだ苦笑を浮かべて。
「元気だよ。元気過ぎて…お母さんが付きっきり」
寂しそうに、そう言った。
扉をきちんと閉めて、ステンドグラスが作る光の絵の中へと入り込む。
「今日、あんまり長くはいられないんだ」
「わかった。じゃあ…今日は何する?」
少年の気持ちもわからずに、少女はそう先を促す。
少ない時間しかないのなら、その分早く遊びたい…とか、そんなところだろうとは思うけれど。
感情を表に出さないように努め、少年は口を開いた。
「何がしたい? おまえのしたいことでいい」
「じゃあ……!」
少女の言うことはわかっているけれど。
少女が望むことはわかっているけれど。
少年はそう訊ねた。
名前は知らない。
それでも、二人は今までずっと、この教会で毎日遊んできたのだから…名前がいかに必要ないかがわかる。
もちろん、この二人にとって――だけれど。
「絵本! あの絵本…読んで!」
お話聞かせて!
少女は瞳を輝かせて。
身を乗り出して乞う。
大きく頷いて…少年は祭壇へと歩を進めた。
色付きの…赤や緑の光の中。
祭壇の上に、絵本を広げる。
「今日は…最初からな」
前もって告げると、少女はにっこりと笑んだ。
「いいよ。全然読んでくれなくなっちゃったから、ちょっと忘れちゃっててさ…」
舌を小さく出しての告白に少年は吹き出して笑う。
少女もそれに特に何も言わず、笑っているだけだった。
「むかしむかし、ひとりの王子が旅をしていました」
「旅の途中、ある国で道に迷った時のこと……」
「王子は森の中の教会で、美しい姫と出会いました」
「なんと美しい姫だろう」
「王子は一目で姫を好きになりました」
「ふたりは毎日森の教会で会い、やがて深く愛し合うようになりました……」
「ところがそのことを聞いたこの国の王は。たいへん腹を立ててしまいました」
「我が姫をたぶらかす者は誰か? すぐに捕らえよ!」
「王は王子を捕らえると、こう言いました」
「旅の王子よ、そなたは姫を好いているというが、その言葉に偽りはないか?」
「姫は私の心の幸い。姫の愛さえあれば、いかなる試練も喜びに変えることが出来ます」
「ならばはるか遠く、この世の果ての外国(とつくに)へ旅立つが良い」
「無事戻ることがかなえば、その時そなたの言葉を信じよう」
「こうして王は、王子を遠い国へ追放してしまうのでした……」
「遠い国へ旅立つ日、悲しみに打ちひしがれる姫に王子はこう告げました」
「私は旅立たなければなりません。でも、どうか悲しまないでください」
「私の心はあなたのもの。たとえ世界の果てからでも、いつか必ず迎えに参ります」
「それから姫は毎日、森の教会で王子の無事を祈りました」
「いつか、王子が迎えに来る日を信じて……」
そこまで読み終わり、少年は不意に顔を上げる。
少女も、つられるようにして…顔を上げた。
少年の瞳の先。
あるのは…大きなステンドグラス。
「……見て、あの窓。ステンドグラスっていうんだ」
「それぐらい知ってる! でも…それが何?」
「この本のお話と…同じだ」
「あっ!」
気づき、少女はゆっくりと窓の絵を見つめた。
下から上へ、ゆっくりと。
「この教会なんだ、きっと……」
「お姫様が待ってたの? この教会?」
「たぶん」
その時、急に鐘が鳴った。
と同時に、少年の顔が曇る。
時が――来た。
「……もう、行かなきゃ……」
「え? もう…?」
「………」
「わかった。うん。つづきは? またあした?」
一瞬の逡巡の後、少年は緩く、頭を振る。
「ううん」
「じゃあ、あさって?」
何となくわかったのか…、少女の瞳が涙で潤み出す。
それを柔らかく微笑みを浮かべて見つつ、少年はまた、ゆっくりと首を左右に振った。
「…………もう、しばらくここには来られない」
噛み締めるようにそう言って。
力なく…笑った。
少女の瞳から、涙が零れ落ちたのは、ほぼ同時。
「どうして?」
涙声で、少女は問う。
お話の中の…お姫様みたいだ。
少年はわずかにそう思う。
そして自分は、さながら王子様。
「……外国に行くんだ。父さんの住んでる国」
祖父が病で倒れたのだから、仕方がないことなのかもしれなかったけれど。
すぐに…母親が迎えに来た。
忙しい、スケジュールの合間を縫って。
世界中を飛び回る母親と一緒にいるよりも、一つの場所に長い期間腰を据えている父親の元の方が…安心できるから、と。
「……遠い国?」
「……とても遠い」
子供の足では、辿り着けないほどに。
「…………」
少女が涙を零す。
拭うことはせずに、少年はその様をただじっと見つめる。
綺麗で……暖かな、その涙を。
「……いつか、俺、お話のつづきしてやる……」
少女は、こくん、と頷く。
涙が溢れる瞳で、少年を見る。
「…………王子様は、教会のお姫様とまたあえる?」
「ああ。王子は、必ず迎えに来るから……」
鐘が、また鳴り響く。
少女はただ泣くことを止められずにいて。
それでも、少年の顔をしっかりと見つめていて。
少年は、寂しげな笑顔を浮かべながら、一度だけ…手を伸ばした。
「だから、泣くなよ」
指先が少女の涙を拭う。
もう泣かない。
そんな声が聞こえた気がした。
王子は必ず迎えに来る。
だから…俺も、必ずおまえを迎えに来てやる。
そう、伝えないはずなのに、少年の口からは、言葉が出なくて。
「約束」
それだけが、放たれた。
教会の鍵は二本しかなく。
一本は少年が持ち。
もう一本は、教会を所有しているはばたき学園の理事長が持っている。
少年と少女、二人の逢瀬を知っている者は、二人以外は誰も知らない。
だから…次の日から、教会の扉は硬く閉ざされてしまって。
少女も、両親に連れられて街を離れてしまってからは。
教会には誰も…訪れなくなって。
「やっぱり…いないか……」
少年が約束を守ろうと戻ってきた時には。
その約束を覚えているのは……少年だけになっていた。
END
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