それは 冷たくて 寒くて どうしようもないものだけれど
これが過ぎれば――そう
暖かなトキが訪れる
雨
頭の上の方で、耳障りな音が鳴り続けている。
その出所をすぐに探り当てて、彼の手は、明確な意志を持って、それを止めるために働いた。
音が鳴り止んで。
彼はそれを、薄く開いた目の前へと持ってくる。
目を擦って、時間を確認して。
それから、目覚し時計をベッドの脇へと置いて。
彼は上半身を起こした。
静寂に包まれた部屋。
静寂に包まれた――家。
聞こえるのは、いつも通り、時計の秒針がゆっくりと刻む、時の音。
けれど今日は。
もう一つ…窓の外から、降り注ぐ音。
それに気づき、彼はゆっくりとした動作でカーテンを掴んで、わずかに開けた。
考えが間違ってはいなかったことを思い知ったあとで、カーテンを開け切る。
ため息は、その時に一度。
水煙を上げるほどに激しく降り続けるそれに、小さく吐いただけ。
それから彼は、ベッドを降りた。
サイドテーブルに置いたままだった携帯を手にして。
扉を開けて。
誰もいない家の中を、彼はいつものように、リビングへと歩いていった。
朝食を摂って、顔を洗って。
着替えて……新聞に目を通して。
何もない日曜日は、こうやって、特に何もしないままに過ぎていく。
それでも時々、思い出したように、宝飾のデザインなんかを考え出すのだけれど。
今はそんな気にもなれなくて。
すべて雨のせいにしてしまえれば、その通りなのだけれど。
それでも――何もしなくても、時間なんてものは、過ぎるわけで。
少しばかり遅い昼食を摂って。
この前買ってきたジグソーパズルにでも手を出そうかと考えた時。
リビングのテーブルの上に放っておいたままに携帯が、不意に音楽を奏でた。
前に、携帯を見せたその時に、勝手に彼女が弄って、自分専用にとダウンロードした着信メロディ。
好きだと言った歌詞と共に、教えられた曲に、彼は携帯を持ち上げた。
通話ボタンを押して、耳へとそれを押し当てる。
「……はい」
『あ、珪くん?』
「ああ」
『東雲優菜です』
「知ってる」
声が聞き取り辛い。
窓のそばか、もしくは窓を開けているか。
うるさいぐらい、雨の音がする。
彼女の声が、雨の音に掻き消されてしまう。
「どうした?」
まさか外にいるのでは、と思えるぐらいのそれに、彼は窓のそばへと近寄っていく。
べつに、だからどうと言うことはないのだけれど。
何となくの行動。
『何…してた?』
「べつに。何もしてない」
『用事、ないの?』
遠慮がちな言葉の綴り方に、彼は「ない」と短く答えて。
彼女らしくない、と……わずかに考えた。
『家にいるの?』
「いる。って言うか、出たくないだろ? 外は雨が降ってる」
『そうだね』
「………?」
『でも…わたしは出ちゃった』
息を吐く。
まさかとは思ったけれど、本当だとは思わなかった。
彼女がいるのは外。
だから、向こうから聞こえる雨の音が、煩い。
「どうして? 用事あったのか?」
『特にないの』
「…買い物か?」
『ううん。出たかっただけ』
「………」
『ね? 珪くん』
「何だ?」
『今日、本当に何も用事がないなら……ここ、開けて?』
「え?」
『用事があるなら、今日はもう、帰るから』
言葉に、一瞬、固まって。
ここってどこだろう、なんて…考えたりして。
それでも、答えが出るのは早かった。
通話を切らないまま、玄関へと向かう。
彼女はこの家を知っている。
何度も、この家へ招待したし。
知らなくても、住所を探り当てれば、すぐに見つかるはずだし。
鍵を開けて、ドアを開ける。
と、淡い赤の傘を差した彼女が、そこには立っていた。
「…おまえ……」
「ごめんね。今日ウチ、誰もいなくて」
「………」
「それで、その…ひとりでいたくなくて」
「…ああ」
「気がついたら、ここにいたの。ごめんね。迷惑なら…帰る」
そう言った彼女は、その言葉通り、どこか…寂しそうに見えて。
「迷惑じゃない」
彼は扉を開け切ると、手を差し伸べた。
目の前のそれに、わずかに驚いて。
それでも彼女は、すぐに笑みを浮かべて。
「ありがとう」
そう、呟いた。
静寂に包まれていたはずの部屋に、音が生まれる。
彼女の声と、それに答える、自分の声と。
空気までが違ってくることに、彼は笑みを隠さずに浮かべて。
二人分のカップを持って、部屋の扉をくぐった。
「あ、ごめんね。急にお邪魔しちゃったのに」
「べつにいい」
「……ありがとう」
立ち上がろうとした彼女を短い言葉で制して。
彼はカップを一つ、彼女に手渡した。
隣りに腰を落ち着けて、彼女を見て。
その視線に気づいた彼女が、にこっと小さく微笑んで。
やっぱり違う――と、肩を落とした。
「珪くん、今日、本当に暇だったの?」
背後に置かれているベッドに背を預けて。
片膝を立てて…カップに口を付ける。
傾ける寸前に、彼は短く肯定の言葉を発した。
「そう。わたしは…買い物にでも行こうかなって思ってたんだけどね」
「そうか」
「うん。でも…雨でしょう? 行く気になれなくて、やめちゃったの。で、お父さんの書斎から本借りて、読んでたんだけど」
やけに大きく聞こえていた秒針の音でさえ、今は気にならなくて。
逆に、時間が進むのが早くなっている気がして。
こういう時には、もっとゆっくりになってほしい……と、願わずにはいられなくて。
「その本にね、人生にも四季があるって、書いてあったの」
「四季?」
「春、夏、秋、冬。毎日笑顔でいられる時は、春なんだって。逆に、寂しくて辛い時ってあるでしょう? そういう時が、冬」
「へぇ……」
「おもしろいよね? それ読んだらね、急に、今は何の季節なんだろうって思ったの」
「春じゃないのか?」
「そうかな? そう思う?」
「ああ」
「でも、今日は寂しかったの。今はそんなことないけど」
「………」
「毎日にもあるのかなって、ちょっと思ったんだ。瞬間瞬間で」
「……かもな」
「うん。そう…思ったんだ。朝は寂しくて、何かしてなくちゃ、いられなくて。だから、秋だったのかもしれない。誰かに会いたいって思って、外に出て。出るんじゃなかったって後悔しながら歩いてたのが、冬? で、ここに着いて、珪くんとこうしてる今は、春」
にっこりと笑って、彼女は言って。
同じ気持ちだと言いそうになったけれど、彼は微笑うだけに留めた。
「来てよかったな、って思うよ。本当に」
「そうか」
「うん。だから、ありがとう」
また笑って、彼女は言葉を紡いでいく。
春の前の、降り続く雨は。
冷たくて、強くて。
それでも、それが終われば。
暖かな春が来る。
その前の、わずかな時間の。
辛い時。
「……一緒にいられればいいな」
「? 何? 珪くん」
「ん? ああ…、また、来ればいいって言ったんだ。寂しくなったら、来ればいい」
「うん! ありがとう」
微笑みに、笑みを零して。
彼女さえいれば、自分は、こんなにも――暖かくなるのだから。
そう、考えて。
彼女がきっと、春。
彼女に会えない時間は、わずかな時間の、辛い時。
たぶん、この雨のような時間なのだと、彼は考えて。
彼女が紡ぎはじめた言葉に、耳を傾けはじめた。
END
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