もう、決めていたから。
わたしは彼のそばにはいられない。
だから今日。
だから――今日。




TEARS





朝起きて。
今日、一番にやったことは。
親友にメールを打つ、というその作業だった。
パソコンじゃなくて、携帯のメール。
本当は電話を掛けたいところだけど、朝は忙しいものだし。
それに、長電話をしてしまう危険性だってあるから。
「麻衣が気づいてくれますように」
祈るように呟いて。
わたしはベッドから降りた。
同時に、部屋の扉が開かれた。
誰かはわかってるから、あえて問わない。
「玲、起きてるかー!? …って、起きてるや」
「起きてます! いいからほら、出て出て。これから着替えるんだから」
「何だよ、わくわくして寝られなかったんじゃないかと思って、起こしに来てやったのにさ」
弟の言葉に首を傾げる。
わくわくって、何で?
「高校卒業したら、ほとんどバラバラなんだろ?」
「まぁ、同じ大学に進まない限りは、そうだろうねぇ……」
「だからさ。誰かに告白とかされるんじゃないかなーって」
「………」
「姉ちゃん?」
「早く出てって。それとも――着替え、見たい?」
ふふんって感じで笑う。
と、尽は顔を真っ赤にさせた。
さすがはまだ小学生。
免疫ないね。
「早く来いよ! 母さんが下で待ってるから!」
赤い顔で言い放って、尽はバタン、と扉を閉めた。
その様子にくすくす笑う。
笑って、たんだけど。
すぐに、制服へと向き直った。
手を伸ばして、笑みを顔からかき消す。
尽の言葉に、思い出したのは彼のこと。
多分だけど、二人きりになっちゃいけない気がする。
それに、今日を乗り切れば…わたしは彼のそばにいなくてもよくなる。
高校を卒業するまでは、そばにいるって、前に言ってしまったから。
その約束だけは、果たしたいから。
彼は忘れているかもしれないけれど。
「ごめんね」
今日、何度呟くかわからない言葉を、わたしは口に出していた。





さっきからたくさんの人が出入りしてる教室内。
へらへらと笑っている人がいれば。
まだ泣いている人もいる。
わたしはと言えば、そんな教室内をただじっと見つめていた。
今日で最後。
こんな光景を見るのも、みんなのこの声を聞くのも。
彼の前の席に座ることも、明日からはもう、ない。
「玲」
「んー?」
横向きに座っているわたしの右側から声。
だけどわたしは、顔を向けることはせずに、言葉だけで反応する。
彼はじっとわたしを見てる。
「さっき、どこ行ってたんだ?」
「職員室」
「職員室?」
「そう。氷室先生に呼び出し食らったの。
卒業したあと、当てはあるのかーって。だから正直にありませんって答えた」
「ALUCARDは?」
「就職ってこと?」
「ああ」
「うーん…ちょっとなぁ……。就職はしたくないかもしれない」
彼の机に肘を突く。
頬杖を作って、なおも瞳は教室へと向けてた。
「どうして?」
「よくわかんないんだけどさ。縛られたくないのかな?」
「………」
ALUCARDに就職したら、多分。
また、彼と顔を合わせてしまうから。
だって、居場所がわかっているということ。
――君に会いたくないんだよ、わたしは。
「葉月くんは大学でしょ? 受かったの?」
「…ああ」
顔をようやく向けたわたしに、彼は少し驚いてたみたいだったけど。
そう、答えを返してくれた。
笑みはない。
一生懸命、何かを言い出すタイミングを計ってる。
そんな感じ。
でも――わたしはそれを、言わせない。
「そっか。一流かー。
僕はもう、勉強から開放されます。やりたいことを見つけないと、第一に」
指を組んで、前へと伸ばした。
そのまま上へと上げて、少し呻く。
と、扉から声が上がった。
「玲ー!」
わたしを呼ぶ声。
それに答えるために手を振る。
彼女たちはわたしの目の前まで、すぐにやってきた。
「もう、聞いてよ、玲」
「どうしたの?」
「珠美ってば、鈴鹿から離れないんだよ?」
「だ、だって、和馬くん、今日も自主練するとか言うから…」
「今日くらいはって引っ張ってきたんでしょ? 偉いじゃん、タマちゃん」
「玲ちゃんにそう言ってもらえると、ちょっと自信出てくる…」
「で? その和馬は?」
「姫条に託した。もうすぐ来るんじゃない?」
「なるほど」
窓際で話をして。
そうしていると、有沢さんが向かってくるのが見えた。
「あなたたちは、今日になっても変わらないのね……」
感慨深げにそう言って。
それから、一枚の紙を差し出してきた。
何だろうって、みんなで覗き込む。
「生徒会主催でやるんですって。七日の日曜日に、ここの体育館で」
「追い出しパーティーなぁ。何や、オレらいない方がええんと違う? とか思うわ」
「あ、ニィやん」
ようやく来たわねー、なんてなっちんに言われて。
ニィやんはにっこり笑って手を挙げた。
答えるようになっちんも手を挙げて、二人でその手を叩き合う。
けど、その顔には悲しみは見られない。
タマちゃんの目は少し赤いんだけど。
有沢さんは、いつもと一緒かな。
「でも、卒業したあとっていうのが何か時期外れな気がしない?」
有沢さんから紙を受け取って、なっちんは声を上げた。
それはあるかもねぇ、なんて、わたしは少し考える。
「楽しそうではあるけどね」
「だな。おまえたちも行くんだろ?」
感想を述べたタマちゃんのあとを和馬が受ける。
何だか、前以上に仲良くなってない? 君ら。
……当たり前かもしれないけど。
「俺は行かない」
言葉に、わたしは驚いて。
それでも、やっぱりな、なんて思う。
「仕事?」
「ああ。辞めさせてもらえなくて」
「大変だねぇ……」
「玲は?」
問われて、少し考える。
彼が来ないなら、行ってもいいかもしれない。
しれない、けど。
「ごめん。友達と卒業旅行行く約束しちゃっててさ」
半分嘘だけど、半分は本当。
旅行なんて行かない。
ただ、遊びに行くだけ。
それも、日にちはこれから決める予定でいたりして。
だから半分本当で、半分嘘。
「何か、それはそれでつまらないよ?」
「だからごめんって」
呻いてくれたなっちんに、手を合わせて許しを請う。
彼に居場所を知らせちゃいけない。
だから…行けない。
「許してください」
もう一度言えば。
「仕方ないなぁ」
大きく肩を落として、なっちんはそう言ってくれた。
「それじゃ、そう言っておくわ」
「お願いします」
頭を下げる。
と、くすくすと笑う声がわずかに聞こえた。
顔を上げれば、その主の顔は瞳へと映る。
「本当に田端さんは変わらないんですね」
こういう日でも。
眼鏡の奥の瞳は優しくて。
わたしもつられるように少し微笑う。
「淋しくはあるんだけどね。でも、それにばっかり捕らわれてもいられないじゃん?」
「それはそうですけど……」
言い淀んだのは、わたしの意見をわかってくれているから。
わたしはふっと笑ってから、廊下の方を見た。
聞き馴染んだ声が微かに響いている。
「先生、来たみたいだよ?」
廊下から視線を外さずに呟けば。
みんな一様に驚いて。
ばたばたと教室をあとにしていった。
「騒がしいよね、こういう日まで」
「でも、らしいわよ。こういう方が、安心するわ」
「だねー」
軽く手を上げて、有沢さんも席へと踵を返した。
その背中を見送りながら、わたしは彼の机にもう一度頬杖を突く。
「仕事、辞めちゃうの?」
「…俺は、そうしたい」
問い掛けたわたしに、彼はゆっくりと答えを返してくれる。
「勿体ない」
「……そうか?」
「うん。勿体ないよ。君は綺麗なんだから、それを利用するのって、手だと思うけどな」
「………」
「使えるものは使わなきゃ。最大限に。それって別に、悪いことでも何でもないじゃない」
教室内のざわめきが小さくなる。
と同時に、氷室先生が入ってきて。
わたしは黒板へと身体の向きを整えた。


校内を回る。
三年間の思い出を整理するみたいに、五階から一階まで、ゆっくりと。
昇降口で靴に履き替えて、上履きをバッグに押し込んだあとで、体育館へと。
靴を脱いで入り込んだそこは。
静かだった。
いつもなら、必ず和馬がいて。
おろおろするタマちゃんを尻目に、二人で言い合ってた。
そうすると、どこかからか、なっちんとニィやんがやってきて。
なっちんがわたしを。
ニィやんが和馬を宥めて。
思い出して、わたしは一人でくすくすと笑う。
無人の体育館は。
ただ広くて。
淋しくて、酷く不安で。
そんな中に一人でいると、やっぱり怖くて。
わたしは逃げるみたいに、そこをあとにする。
ばたばたと走って、中庭へ。
園芸部の花壇に目を向ければ、春らしく、綺麗な可愛い花がいっぱい咲いていて。
守村くんが一生懸命に世話していたのを思い出した。
有沢さんも、部員じゃないのに手伝ったりしてて。
で、そのそばで、三原くんがスケッチを取っていた。
花の色をそのまま写し取るのは難しいんだ、って、三原くんは笑いながら言っていた。
そこに、瑞希さんがお茶とかお菓子とかを差し入れたりしてて。
小さなお茶会が始まったりする。
楽しかったね、なんて思い出したけど。
わたしはすぐに、踵を返す。
視線を投げたのは、敷地内の外れ。
森の中。
どこからかする猫の声に、一度だけ視線を外して、その姿を探した。
けれど。
わたしはそれから割とすぐに、歩き出した。

何度目だかわからないけれど、ここに来るのは初めてじゃない。
その建物の向こうの青空を見上げて。
今日もどうせまた、開いてないんだろうな、なんて思いながら視線を下げる。
扉は。
ぴったりと閉じているはずの扉は。
ほんのわずかに開いていた。
「………」
どきどきしながら手を掛ける。
かなり緊張。
だって、ここに入るのは初めてだから。
キィ…と小さく音を響かせて、扉は開く。
目に飛び込んできたのは、色。
それがステンドグラスだと気づくまでに、数秒を要して。
わたしは一歩、そこへと踏み込んだ。
――懐かしい気がするのは、なぜなんだろう?
理由もわからず、歩き続ける。
わからないまま、ステンドグラスを見上げ続けて。
その光がわずかに揺れたことに、わたしは視線を初めて外す。
そこには、夢の中、何度も見続けたものがあって。
どくん、と胸が大きな音を発した。
思い出したのは声。
迎えに来るから、と。
必ず、戻ってくるから、と。
そう発した、幼い男の子の声。
「夢…じゃなかったんだ、やっぱり」
思い出していただけのこと。
けれど、その男の子のことは、それ以上は思い出せなくて。
わたしは絵本を開く。
読めないなって、ちょっと苦笑う。
それでも、読んでくれた声は覚えてる。
のに、姿とか、そういったものは思い出せない。
「そっか。そうなんだ」
くすくす笑いながら、振り返る。
わずかに腰掛けたあとで、少し考えて。
態度悪くてごめんなさい、なんて、十字架に軽く頭を下げた。
そのあとでまたすぐに絵本に目を落とした。
覚えてる。
知ってる。
思い……出したよ。
わたしがこんな風になった理由。
手放したくなかったものを、手放さなくてはならなかったこと。
あの出来事はきっと、誰の所為でもない。
誰の所為でもないけれど。
わたしは素直に、悲しめなくなった。
笑えなくなった。
あの子はどうなんだろう?
……思い出せないけど。
息を吐いて、絵本を閉じる。
理由は、わずかに音を立てた扉。
「捜しちゃった?」
「…ああ」
笑みを送って、絵本を置いて。
わたしは彼の前へと歩き出す。
携帯を取り出して見たりもして。
着信が入っていることを確かめた。
「僕ね、ここに来たことあるよ。あそこに置いてある絵本も、見たことある」
指を差して説明して。
わたしはくすくすと笑い続ける。
「一人じゃなかったのは覚えてる。
でも、一緒だったその子のことは思い出せないんだよね、これが」
「………」
「何でだろうね?」
笑って言って、わたしは教会を出る。
「玲」
「はいはい?」
「俺……」
「モデル、辞めないでね?」
笑みをかき消して、彼に届けた。
「これはわがまま。わたしのね」
「………」
「街の中、視線を上げたり下げたりすると君がいるの。
それに幸せを感じてる人って、いると思うからさ」
彼が眉根を寄せる。
目を細めて、わたしを見て。
「わたしも…その一人だし」
告げれば、彼は目を見開いてくれて。
わたしは嬉しくて、笑みを浮かべた。
好きだ、なんて言えなくて。
また会いたい、とも言えなくて。
「また、会えたらいいね、どっかでさ」
「…玲」
「このあと僕、友達と約束してるから、そろそろ行きます」
敬礼するみたいに、右手の指をくっ付けて。
その手の先を、額に付けた。
ごめんね。
でも、わたしのわがまま、聞いてくれると嬉しい。
「ばいばい!」
叫んで、走り出す。
彼の姿はもう、それ以降は振り返らずにいた。


「麻衣!」
校門のとこ。
違う制服はものすごくよく目立った。
そのそばへと走り寄って、わたしは肩で息をする。
彼女が逃げないように、肩に手を掛けたまま。
「スカーフは?」
「取られた」
「やっぱり?」
「やっぱり。制服くださいって子もいたけど、それはさすがにってごめんなさいした」
「だろうね。で? 呼び出した理由は? すごい見られて、嫌だったんですけど」
「ごめん。逃げたかったから、その口実に」
「逃げたかったって……」
ああ、彼か。
加えられた言葉に、頷いて。
手を引かれて、歩き出す。
――のに。
「玲?」
「ごめ、ごめんね?」
ぎゅっと手を握って、俯けば。
麻衣は小さく嘆息して、抱き締めてくれた。
「本当に…迷惑ばっかり掛けるんだから、玲ちゃんは」
「ごめん」
ぽんっと手を頭に置かれて、ほっとしたら。
涙はなくなった。
手の甲でぐいっと拭って、顔を上げる。
もう、彼に会うことはない。
あの手に頼ることも、きっと――ない。
「で? どこに行くの?」
「携帯替えに行く」
「…徹底するわけだ?」
「します。会わないって、決めたんだから」
手を繋いで、歩き出す。
今日で高校生活は終わりを告げた。
だからこそ、彼とももう、会う理由はない。
彼のそばには、いられない。
わかっているから、知っているから。
「バイバイ」
はばたき学園というその場所に向かって、声を投げて。
わたしは短く、息を吐いた。

END

 

卒業式、です。
このあと、二人は全然会いません。
携帯は通じないし、家に行く勇気も持てません、王子。
ので、再会するのは、この約六年後、と言うわけです(正確には、五年十ヶ月後)。

戻る