カタン、と音を立ててしまうと。
それはなかったことにはできなくて。
自分に一生懸命、なかったことにしようと言い聞かせても。
その場にいた誰かには。
なかったことには、できないから。
sweet
階段を一段一段、ゆっくりと言うわけでもなく、極々普通に降りていく。
途中で欠伸を漏らしたりしながら、降りていく。
今日の仕事は終わりで。
とにかく、彼女に早く会いたかったから。
その眠気を吹き飛ばすために、彼は緩く首を振った。
短く息を吐いて。
音もなく、息を吐いて。
最後の一段を降り切る。
と、見慣れた姿が、入り口のそばには立っていた。
彼には背を向けて。
視線は、扉の向こうの空へと注がれている。
たぶん寒いだろうから、と…誰かが彼女を中に入れたのは明確で。
彼はふっと、微笑を浮かべた。
近づいて。
気づかない彼女の横の後方に立って。
「何か見えるのか?」
「え? あ……!」
声をかけたことでようやく気づいた彼女は、ひどく驚いていて。
その驚きように、彼も目を丸くする。
「どうした?」
訊ねても、彼女はまだ焦っているようで。
それでも、辛抱強く彼女の言葉を待っていると。
「びっくりしちゃったの。だってぜんぜん、気配なかったから」
「……そうか?」
聞けば、彼女はこくんと首を縦に振る。
「音とか全然なかったし」
「………」
言われて、そうかもしれない、と思う。
階段を降りている時も、特に音を立ててはいなかったし。
彼女の姿を見つけてからは、ことさら丁寧に、足音を立てないようにと、気を使っていたようにも思う。
――けれど。
「おまえが熱心に、外を見てたから…じゃないのか?」
「……そうかもね」
くすくすと笑って、彼女はもう一度、視線を空へと投げた。
そこには満月があって。
見上げてしまう理由も、わからなくはなくて。
「あ、ごめんね? 帰ろう?」
ぱっと振り返った彼女の申し出に。
彼は少々驚きながらも。
次の瞬間には、頷いていた。
「知ってる? 満月の夜の、おとぎばなし」
急な問いかけに、彼は少し考えて。
ふるふると首を横に振る。
言葉を紡ぐ度、呼吸をする度に、真っ白な息が空気中に解き放たれていって。
それは、小さな風に、かき消されていった。
ぼんやりとそれを眺めて。
その向こうにある彼女の顔も、同時に視界に入れて。
彼はゆっくりと歩を進めていた。
「じゃあ、金色の猫の話は?」
「…知らない」
素直に答えれば、彼女はふふっと笑う。
嬉しそうに見えて、彼はその邪魔をせずに、彼女の言葉を待っていた。
「幸せを運んでくれる、金色の猫がいるんだって。その猫に触れた人は、必ずみんな、幸せになるの」
「へぇー」
「でね、その猫。月の使者で、満月の夜にしか、現われないんだって」
「それで、満月の夜のおとぎばなし、か」
「うん」
大きく頷いて、彼女は微笑う。
それから、それは楽しそうなものへと変わって。
「さっきね、珪くんが急に声かけてきた時ね? 猫みたいだなって、そう思ったの」
「………」
「慣れてる子たち、みんな急に足元に擦り寄ってきたりするでしょう?」
「…ああ」
「どこにいたの? って思うぐらい」
「そうだな」
「そんな感じだったの」
言い終えてもまだなお、彼女は楽しそうで。
そして、話の関連性が、わからなくて。
彼はわずかに、眉根を寄せた。
満月の夜の、金色の猫。
……と、猫のような、自分。
「珪くんの髪、金色でしょう?」
その言葉に、ああ、やっぱり、なんて思う。
だから彼は、彼女の手を取った。
「珪くん?」
「俺が金色の猫。…って、言いたいんだろ?」
「…そう、だけど」
「だから。べつに…触ったとしても、幸せになれるかどうかなんて、わからないけどな」
届けて、歩を進め続けて。
けれどそれは、すぐに、止められた。
どうしたのかと、名を呼ぼうと口を開きかける。
と、繋げていた手に、力が込められた。
ぎゅーっと、力いっぱい。
「優菜?」
痛みはないけれど。
彼女が何かを思っていることだけは、はっきりとしているから。
何かを不満に思っていることだけは、明確だったから。
「……わたし、今でも十分、幸せだよ?」
返された言葉に、目を見開いて。
彼は言葉もなく、その続きを聞いていた。
「珪くんのそばにいられるだけで、幸せ…なの。だから、幸せになれるかどうかわからない、なんて言わないで? わたしは、幸せだから。珪くんと一緒にいることも、どこかに遊びに行けることも、こうやって、話をしていることも。珪くんがわたしにくれる、幸せでしょう?」
「………」
「…違うの?」
泣きそうな声で、そう言って。
彼女はちらりと、彼の顔へと視線を向ける。
それに、微笑を落として、彼は言葉を綴った。
謝罪の言葉が口からは出かかったけれど。
「…そうだな」
改めて、そう、言葉を綴り直した。
彼女が言いたかったのは、きっと。
彼女に幸せを与えているから、という理由もあって。
『金色の猫』みたいだと。
そう、自分に届けたかったんだと。
彼は今になって、気づいて。
「俺はきっと、おまえだけの金色の猫、なんだろうな」
だからそう、彼女に届け直した。
彼女は瞳を大きく見開いたあとで、嬉しそうに微笑ってくれて。
彼も安堵の息を漏らした。
「でも俺、おまえのそばにいられるなら、べつに何でもいいけどな」
金色の猫でも、何でも。
歩き出してから、そう、何気なく落とした言葉。
彼はそれが彼女に届いてしまったあとで、自分の言った意味に辿り着く。
どうしようかと考えて。
けれど、否定することも、ためらわれて。
「わたしもそうだけど……」
なんて、彼女が綴ってしまったから、収拾はことさら、つかなくなって。
「でもやっぱり、珪くんは今の珪くんが、一番だと思うよ?」
「…そう、か?」
「うん」
満面の笑みに。
きっと、自分が言った意味など、全然わかっていないんだろうな、なんて、それを少し、残念に思いながらも。
それでも、だからこそ、本音を聞けるのだと、解して。
彼も笑みを浮かべていた。
END
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