| 彼女にしてみれば、いつものお礼程度のこと。 彼にしてみれば、とてつもなく、幸福なこと。
precinct
昼休み。
いつものように、彼女お手製の昼食を胃に収めて。
「美味かった。サンキュ」
そう感謝の言葉を届けた。
いつものように、彼女は微笑んでくれて。
嬉しそうに、どういたしまして、と紡ぐ。
べつに毎日じゃなくてもいいと言ったのにもかかわらず。
彼女は「自分がそうしたいから」と一歩も引いてくれないわけで。
仕方なく、この幸せに甘んじてしまっている。
「なぁ、今度の日曜、空いてるか?」
「うん。用事は何もないけど?」
「じゃあ、俺の家、来ないか?」
だから――彼が休日にどこかに誘うのは、そのお礼。
前に彼女が来た時に土産にと持ってきたサボテンが、綺麗に花を咲かせたから。
それをただ、見せたいと思って、彼は自分の家に行き先を決めた。
なのだけれど。
「……あのね」
彼の誘いに、少しだけ…考えて。
彼女は逡巡するように、口元に固めた手を当てて。
そして、意を決したように、口を開いた。
「いつも、珪くんの家に招待されてるから。今度の日曜は…わたしの家に、遊びにきませんか?」
微笑って、照れたように、そう言って。
他人行儀なその言い方に、彼も微笑っていたけれど。
言葉が意味することに、ほんのわずかに――戸惑って。
「あ、でも、嫌ならいいよ? 尽がうるさいもんね、ウチじゃ」
「べつに、そういうわけじゃない」
返答に困っていると、彼女は気づいて、そう……言ってくれるけれど。
何と言うか。
行っていいのだろうか、という…答えはもう、目の前に出されてしまっていることを、どうしようもなく、考えたりするわけで。
言ってみれば、彼女の家に行くということは、必然的に――彼女の部屋になるわけで。
そこは、彼女の領域とも言うべき場所で。
まるで聖地に赴くことを許されたような気にさえ――なってくる。
彼女に恋をしている自分は、きっと、狂信者なようなものなのかもしれない、と思う。
愚者か聖者かは、わからないけれど。
「珪くん? あの、本当に嫌だったら……」
「いや、行ってもいいなら…行く」
かなり長い時間、考えた方だとは思う。
けれど、彼女の表情を曇らせたくない、という方が――彼の中で勝って。
「うん!」
結局、彼女の申し出を受け入れた。
満面の笑みで、嬉しそうに頷く彼女がかわいくて。
愛しくて。
嬉しくて。
彼は柔らかく、微笑んだ。
彼女がそれを持ってきた時、好きなのか、と彼は聞いた。
当然の成り行きだっただろうとは思う。
なぜ急にサボテン?
と…思ってしまったから。
「かわいくない? 小さいの」
リビングの、日当たりのいい場所にコトッと、彼女は置いて。
「珪くんにお水もらって、綺麗な花を咲かせてね?」
微笑んで、話しかけていた。
小さいものは、保護欲をくすぐるもので。
彼女は前に、そんなことを言って。
小さいものを見るたびに、かわいいと声を上げていた。
「手先が器用じゃないと、こうは行かないよね?」
などと、手作りのものを見た時には付け加えて。
だから、彼女がそう言い続けてきたものがここにあるのは――仕方のないことなのかもしれないけれど。
「これ……」
「それね、珪くんの家に持っていった方の片割れなの」
実は同じ鉢に植わってたんだよ。
彼女の部屋に入って。
綺麗に整頓されたその机の上。
隅に置かれた、サボテンに、彼は目を細めた。
蕾を付けたそれは。
今にも咲きそうなほどに、その蕾を膨らませていて。
「珪くんの方は、咲いた? 花」
「ああ。咲いてる」
本当は今日、それを見せようと思っていた。
気持ちをそのまま届ければ、彼女は残念そうな顔をしていたけれど。
「今度、見に来ればいい」
言えば、彼女はにっこりと笑って。
「必ず行くね」
と、答えてくれた。
シンプルな印象を受けるのに、所々、配色や、そういった部分に、彼女らしい――女の子らしさみたいなものを感じて。
彼は差し出されたクッションの上に、腰を降ろした。
「尽にね、今日の朝、どこか行かないのかーって言われたから、つい口滑らせちゃったんだよね」
「何て?」
「珪くんがウチに来るの! って。言った途端に、今日の予定、全部キャンセルする、とか言い出して」
「それで?」
「何でって聞いたら、いろいろ聞きたいことがあるからって。何を聞くんだろうって思ってたら、わたしのこと。きちんとお願いしとかないとなって。まったく、何考えてるんだかわからないよね?」
ほんのりとわずかに頬を染めて。
彼女は慌てたように紅茶のカップに手を伸ばした。
「それでも、追い出したけど。まぁ、早く帰るってうるさかったけどさ」
彼女の慌てようと言いように、彼はくすくすと笑い始める。
それにまだ、弟への愚痴を零して。
しっかりと聞き続けていれば、彼女はフォローするかのように。
「いいとこもあるんだけどね」
と、付け加えて。
「というか、知らなくていいことまで知ってるの。大人っぽいっていうんじゃなくて、無理にそうしてるのかと思ってたんだけど」
「けど?」
「変に博識って言うか……そんな感じ。どこで覚えてくるんだろうね?」
弟に言わせれば、常識で、姉が知らな過ぎ。
姉に言わせれば、非常識で、弟が知り過ぎ。
その二つの事実に、彼はふっと笑んだ。
「俺も前に言われた」
「尽に? 何を?」
「ほしいものがあるなら、自分から動け、とか。待ってるだけじゃ意味がない、とか」
「……ごめんね。ちょっと説教臭いところ、あるかもしれないね、あの子」
「いや。おかげで…一歩踏み出せたから」
はっきりと言われたわけではなくて。
遠回りに言われただけ。
誰かに持って行かれるぞ、と…脅しのように言われただけ。
それだって、遠回りに言われて。
気づいた自分がいたから、今ここに、彼はいられている。
「あいつと話すのも、いいかもな」
言えば、彼女は目を丸くして。
「わたしがいないところでやってね? 何か……恥ずかしいこと、いっぱい言われそう」
「止めなくていいのか?」
「珪くんが本気にしなきゃいいだもん」
「全部本気にすると思う、俺」
「うそ!?」
「たぶん」
どうしよう…と、彼女は考え出して。
それでも、何の前触れもなく、彼の前に姿を見せる彼女の弟と、ゆっくり話をしてみようか、なんて。
本気で、彼は思う。
尽という存在がいたからこそ、自分はここにいられているわけで。
感謝こそすべきだとさえ、思う。
その時、唐突に扉をノックする音が響いた。
「葉月、いんのかー?」
こちらが返事をする前に、扉は開かれて。
姿を見せた相手に、噂をすれば何とやら、とか、彼は考えて、苦笑を零した。
「尽! もう帰ってきたの?」
「あたりまえじゃん。どうでもいいけど姉ちゃん。ジュース、オレの分入れて、持ってきてくれよ」
「………」
「じゃないと、葉月にあることないこと、吹き込むぞ?」
「…行ってきます」
渋々立ち上がった彼女と入れ替わりに、尽が部屋へと足を踏み入れる。
扉が閉まったのをはっきりと確認してから、尽は彼に向き直った。
にっと笑って、腰を落ち着かせて。
「安心した」
そう、言葉を発した。
「姉ちゃん、あんまり自分の部屋に他人を入れないからさ。このオレでさえ、しょっちゅう追い出されるし」
「へぇ……」
「あ、今ウソだと思っただろ? これが結構本当でさ。でも、葉月がここにいるってことは、姉ちゃんが自分から誘ったんだろ? だからかなり安心したなって」
「そうか」
「がんばれよ、葉月。姉ちゃんのことで聞きたいことがあったら、オレに聞いてくれよな?」
笑って、そう言って。
どうしてそこまで、とその表情を見て、彼は思い始める。
姉思いなのは、知っている。
それが少々、度が過ぎているんじゃないか、と思うほどに。
それでも、自分の邪魔は決してしては来ない。
「どうして?」
「あ? 何が?」
「どうしておまえ、そこまでがんばれるんだ?」
「………」
問いに、きょとんとして。
尽はすぐに、呆れているような、そんな顔をした。
「そんなの、姉ちゃんが葉月の話ばっかりするからに決まってるじゃん」
そのぐらいわかるだろ、フツー。
言って、尽は彼女が出してくれたテーブルの中央に置かれている菓子を手に取った。
遠回りに言ったのは、いつ彼女が帰ってきてもいいように、という配慮からだろうとは思う。
「毎日毎日、今日は何をしただの何だの。オレに報告してくれるんだよ、姉ちゃんは」
一口食べては、そう零して。
「で、その顔がめちゃめちゃ嬉しそうだから、オレは協力するわけ」
「大変だな」
「でもないぞ? 姉ちゃんがいい男をゲットできれば、結果的に、オレにもいいことになるんだしさ」
「そうか?」
「そうなんだよ。自慢できるじゃん、結構」
「………」
「ま、今は姉ちゃんの幸せためかな? 姉ちゃん鈍いし、かなり奥手だけど、がんばってるの、知ってるからさ」
クッキーを食べたからだろう。
口の中が乾いてしまったことに我慢ができなくなって、尽は姉のカップへと手を伸ばす。
けれど、紅茶がよほど苦かったのか、一口含んでからすぐに、顔を顰めた。
階段を慎重に上がってくる足音が聞こえる。
尽が立ち上がって、扉を開けた。
廊下を覗き込んで、彼女が手にしているものを見て。
「ケーキ? 何で?」
「お母さんが買ってきてくれたの。尽、こっち持って」
急いで廊下に出たその姿を見て。
やっぱり、感謝の言葉しか浮かばなかったことに、彼は笑みを零した。
「んじゃ、オレ、部屋に戻るから」
手に持っていたものをすべてテーブルに置いて。
自分の分を持ち上げると、尽はそう、言い放った。
「え?」
「言いたいこと、言ったしさ」
「何言ったの?」
「まぁまぁ。それに、邪魔しちゃ悪いじゃん?」
「なっ!」
「そんじゃま、ごゆっくりー」
器用に扉を閉めて。
足音が遠ざかって、もう一つ扉が閉まる音。
固まった彼女を見て、彼は微笑う。
「べつに、ないことは聞いてないと思う」
「…わたしも、そう思いたいです」
座り直して、息を吐いて。
また、他愛無い話がはじまって。
暖かな場所で、二人で笑みを零した。
END
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