その会話が聞こえたのは
本当に…
偶然だったと思う



only




「ねね、ユナ」
「何?
なっちん」
「今回のバレンタイン、本当に好きな男にしか、チョコはあげないこと、にしない?」
「え、えぇー?」
担任の氷室に、課題を提出しに来た彼の耳に、そんな会話が飛び込んできた。
偶然通りがかった、教室から。
誰と誰の会話なのかは、声を聞けば、すぐにわかったことだけれど。
彼女たちの口から紡がれた名前に、彼の足は止まった。
何の話、してるんだ?
ぼんやりとしていたからといって、聞き逃すことはなかったけれど。
彼は耳を澄まして、会話に集中する。
「そ、それって、義理はなしってこと?」
戸惑ったようなそんな声。
聞き慣れた声に、彼は顔ををそちらへと向けた。
扉がわずかに開けられている、その、教室の中へ。
「あったりまえじゃん!
高校最後なんだし」
「そんなー。なっちんはいいよ?
ニィやんと付き合いはじめたんでしょう?」
「まね
ちなみに、珠美と志穂にも、もう了承は得てあるから」
「ウ、ウソー!」
「本当。二人ともガンバルって言ってたよ。だからアンタも覚悟しなって。当日、持ち物検査するからね?」
「な、なっちんー!」
「どうしてそんなに怖がるのよ?
アンタはどうせ、葉月でしょ?」
当然の如く出された、自分の名前に、彼はわずかに目を見開く。
ゆっくりと扉に近づいて、中を覗き見て。
「それは…そうだけど」
視界に入ったのは、俯いている少女の横顔。
逆光のためか、表情までは、よく見えない。
「だったら平気じゃない」
「……自信ないよ」
「本気で言ってんの?」
「だって……」
「………」
ため息が漏れた音が伝わる。
それから、わずかに机が動く音。
「何で?
周りが言ってること、気になるの?」
「………」
「気にすることないよ?
言いたいヤツラには言わせておけばいいんだよ。葉月はアンタのこと、嫌がってないでしょ?」
「うん……」
「アタシだってね、まどかと付き合った当初は、いろいろ言われたけど、気にしなかったよ?
あんなのは、負け犬の遠吠えじゃん? 好きな人の隣りを手に入れようと思ったら、周りよりも自分のことを一番に考えなきゃ。邪魔者を排除することよりも、自分がいかに、その人のそばに行けるかを考えなきゃいけないのに、それをしなかった人間がどうこう言ってたって、真実味ないし」
「…うん……」
「それに今、アイツの一番近くにいるのは、絶対ユナ、アンタだと思うし」
「……うん」
「ユナから聞く葉月は、アタシらが知ってる葉月じゃないし。それを考えたら、葉月はアンタだからって、普段は見せないような表情してるってことなんだよ?
もったいないなー。アタシだったらその表情、絶対、フィルムに収めるんだけど!」
友人の言葉に、彼女がほんの少しだけれど、笑ったような気がした。
けれどすぐに、それは消える。
瞼を閉じて、一瞬だけの、沈黙を流す。
「――なっちん」
「ん?
元気出た?」
「………」
黙ったまま、彼女はいすを引き、それに腰かける。
いすに対して横に座った状態。
だから…彼からは丸められた背中しか、見ることはできなかった。
「わたしもね、わかってはいるんだ。このままじゃダメなんだろうなって。でも…でもね、何か、怖くって」
「……今の関係、壊しちゃうのが――でしょ?」
「うん…」
「その気持ち、わからなくもないけど……。でもね、どっちかが一歩でも歩み寄らないと、本当にこのままだよ?
アイツの隣りに、自分じゃない誰かが並んでもいいわけ?」
「それは……」
「アイツの口から、ほかの女の名前が出てもいいわけ?
アタシだったら、悪いけどイヤ。すっごいムカツクし、ハラタツ」
「………」
「自信、持とうよ。アンタはアイツの一番近くにいるっていう自信。でも、それに満足しちゃダメだよ?
もっと近くに行かなきゃ。もっといい関係築けるって、そう思わなきゃ」
「……うん」
「じゃ、これは決定ね

「…あ、あれ?」
顔を上げ、彼女は彼から死角になっている場所にいる友達にその視線の先を向けた。
「べつにさ、告白しろって言ってるんじゃないんだし、いいじゃん!
それに第一、アンタたち、付き合ってないって言う方がおかしいと思うんだけど」
「え?
えー? ど、どうして?」
「どうしてって……」
「例えば?」
「例えばぁ!?
うーん…いろいろあるよ? 毎週日曜日、二人で出かけてるし」
「ま、毎週じゃないよ!
一週間置きぐらい!」
「あのね、友達レベルでそれはないよ?
言っとくけど」
「………」
「あとは、昼休み、一緒にお弁当タイム♪
ちなみにユナのお手製」
「それは……」
「授業をサボったこともあったね。二人で何度も」
「…あぅ……」
真っ赤になって、彼女は俯く。
いすの上で座り直し、そしてまた、彼に背を向けた。
「珠美も志穂も、実はアタシも、アンタに背中、押してもらってるんだよ?
アンタからアンタしか知らない葉月の話を聞いて、アタシもガンバらなくちゃって思ってきたんだから。そのアンタがガンバらなくてどうすんの?」
「……大丈夫…かな?」
「平気だって。それに、アイツには何も言わなきゃいいんだよ。去年までと同じように、手作りチョコをあげればいいの。こっちが用意してるのは一つだけ、なんて、アイツは知らないんだし」
「…そうだよね」
「そうだよ。だから言ったでしょ?
べつに告白するわけじゃないんだって。それは、自分がしたいと思った時でいいの」
「うん。一つに想いを込めて、がんばって作ればいいんだよね?」
「そういうこと

会話が笑い声に取って代わって。
彼女が立ち上がった。
嬉しそうに一歩、前へ出て。
くるりと振り向いて。
「がんばってみるね。気づいてもらえるように」
彼女は笑っていて。
けれど、確かに決意の色を滲ませていて。
彼は、気づかれないようにと、踵を返した。




三年生は、特にこの時期、学校に来る必要はないのだけれど。
なぜその日が登校日に設定されているのかはわからなかった。
まぁ大方、校則を取り決めた理事長が、これも取り決めたのだろうことは予想が付いたけれど。
「珪くん!」
卒業までの日程やら、それまでの心構えやら。
どうでもいいようなことを聞かされ続けていた彼は、その声に、出そうになっていた欠伸を噛み殺した。
名残で、口元に手を当てて。
「どうした?」
目の前まで、歩を進めてきた彼女に、焦点を合わせる。
彼女は少し、心配そうな顔をしていて。
「眠いの?」
「ああ…。ちょっとな」
素直に答えて。
それでも、どうしたのか、と訊ねる。
「まだ、帰らないの?」
「帰る」
「一緒してもいい?」
「ああ」
優しい笑みで返答を口にして。
彼はその席から立ち上がった。
教室を出る直前、振り返って。
付いてくる彼女の姿を確認する。
隣りに立った彼女は嬉しそうに笑っていて。
つられるようにして、彼も笑みを零した。
「あのね、今日…わたしの家に寄ってもらってもいい?」
「ああ…。かまわない。送ろうと思ってたし、俺」
「ありがとう」
にっこり笑って。
二人で、まだざわめきの残る廊下を歩く。
昇降口に着いたところで、彼女はそう言えば、と口を開いた。
「今日は平気だったの?」
「何が?」
「何がって……今日、バレンタインだよ?」
「ああ。全部断った」
「…どうして?」
「どうしてって……」
俺がほしいのは、一つだけだし。
言わずに置いて。
彼は校内から先に足を踏み出す。
そのあとを急いで追って、彼女は隣りから、彼の顔を覗き込んだ。
「珪くん?」
「ん?」
「断ったって…チョコレート、嫌い?」
「いや、嫌いじゃない」
「じゃ、どうして?」
「………」
「べつにいいけど…」
ため息を吐いて、彼女は肩を落とす。
表情に、不安の色を隠さずに。
それでも、彼女は顔を上げた。
「そう言えば、珪くんの作ったアクセサリー、お店で見たよ」
話の流れを変えるように、そう切り出して。
「この前、珪くんの部屋に行った時に見たのと同じのだったから、そうかなーって思ったんだけど」
「その店だったら…頼んで、置いてもらってるから……」
「じゃあ、そうだね」
そんな話をしながら、彼女の家へ。
バレンタインに関する話は、それ以降、出ることはなくて。


「ちょっと、待っててくれる?」
家に着いて、上がって。
彼女の部屋に通されて。
そこで発された言葉に、彼は「ああ」と短く返した。
バタンと扉が閉まる。
直後、壁一枚向こう側で、バタバタと走る音が聞こえた。
階段を駆け下りる音が響いて。
それも聞こえなくなる。
することがなくて、彼は部屋を見渡した。
前に来た時と、あまり変わらない…部屋。
ベッドのそばにある小さな本棚の中身が、少しだけ変わっていて。
そのすべてが、自分の姿が載っている雑誌だということに気がつくまでに、数瞬を要した。
そうこうしているうちに、扉の向こうから声が聞こえた。
「珪くん、ちょっと…開けてもらってもいい?」
声に、扉へと近づいて。
そして、開ける。
「ありがとう」
感謝の言葉と共に部屋に入ってくる彼女の手には。
二人分の紅茶と――チョコレートケーキ。
「あ、あのね、今日、バレンタインだし。いらなかったら…いいんだけど」
言いながら、小さな机の上に置いて。
まだ立ったままでいる彼を振り返った。
「がんばって、作ったし。本当は、結構大きかったんだけど、尽とお父さんにって取り分けたら、このくらいしか…残らなくて」
それでも、充分に二人分はある、そのケーキ。
「食べてくれたら、嬉しいんだけど」
笑ったその表情の中。
わずかに、苦さが伺えて。
彼は足を踏み出した。
用意された自分の席に座って。
「美味そうだな」
そう言って、フォークを手にする。
彼の行動に満面の笑みを見せた彼女は、嬉しそうに頷いた。
「うん!
おいしかったよ。朝、ちょっと食べたんだけど。お母さんもね、上手にできたって、誉めてくれたし」
「そうか」
「うん!」
彼女も座る。
彼の目の前へ。
そして、言葉もなく、ケーキの欠片を口に運ぶ彼を見た。
「おいしい?」
「ああ。美味い」
「よかった……」
ほっと安堵の息を吐いて。
彼女は胸を撫で下ろす。
「あ、でも」
気づいたように顔を上げて。
「どうして、わたしのは食べてくれるの?」
不安そうに問いかけてくる彼女に、彼はふっと笑みを零す。
「ほかの人のは断ったんでしょう?」
「ああ」
「でも、わたしのはいいの?」
「いいんだ」
「どうして?」
「おまえのだから」
「………」
「おまえのしか、いらない」
言えば、最初は瞬きを繰り返していたけれど。
意味がわかったのか、彼女の顔は、赤く染まった。
「あ…、ありがとう……」
俯いて、そう言うのがやっとで。
彼はその姿を愛しそうに見つめていて。
その視線から逃れるように、彼女は急に立ち上がった。
「ティーポット、持ってくるね!
その方がいいし!」
早口で捲し立てて彼女は部屋から出ていく。
また、バタバタと足音が響いて。
階段を下りる音がして。
それが消える直前、小さく悲鳴が聞こえて。
心配になって立ち上がりかけたけれど、彼はすぐに声を立てて笑いながら、腰を落ち着かせた。
自分のためだけにと作られたそれを、口に運んで。
彼女の分として取り分けられたそれも、食べてしまおうかと、わずかに考えながら。
階段を上がってくる足音が近づいてくるのを、彼は聞いていた。

END

 

3年目のバレンタイン!
最初の会話、というか、提案を誰に話させるかで悩んでました。
なっちんか、それともニィやんかで。
結局、なっちんのお仕事になりましたが。
だって、ニィやんだと、どのタイミングで言わせるか、またちょっと悩むんだもん……。

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