| 無音のはずの
この時間 使っていないはずの
教室
なのに そこから
音はした
numerical expression
夕日が傾いて。
その時間に、頼まれたものをすべてやり終えた俺は。
職員室から出て。
なぜかその廊下を、歩いていた。
用はない階数。
なのになぜか、荷物が置いてある教室ではなくて。
三階という、微妙な階を。
小さく息を吐きながら、歩き続ける。
そう、用はない。
ないのだから、踵を返して。
また、階段を上がっていけばいい。
考えているのに。
思っているのに。
なぜか俺は、その廊下を進んでいた。
別の階段を使ったとしても、変わりはない。
そこまで行ったとしても、ただ、疲れるだけ。
わかっているのに。
ほとんど、無人と言ってもいい、この場所で。
響くのは、俺の足音だけで。
響いているのは、それだけで。
なのに。
カチカチと、小さく音が響いていた。
聞いたことのあるその音は。
確か……そう。
キーボードを叩く、そんな音で。
ゆっくりと、顔を上げれば。
廊下に、人口の光が降りていて。
もう少し顔を上げれば。
そこは、空き教室だということを、目に入った光景は、示していた。
開閉されていないから。
立て付けの悪くなっている扉の。
その中からは、音は漏れてくる。
覗けばそこには。
同じマンションの住人が、パソコンの画面を覗き込んでいて。
何かを、打ち込んでいて。
「…? ああ、一ノ瀬」
それを見ていると、向こうも顔を上げたことで、目が合ってしまった。
「帰りか?」
「…ええ」
「そうか」
にっこりと笑って、その人は言う。
確か…苗字は『鳥川』。
名前は覚えてない。
相手は先生なのだから、そのぐらいで十分だ。
四月に、体育館の舞台の上で。
彼女はそこに、毅然と立っていた。
それから何度か、マンション内で会って。
挨拶ぐらいは…した人物。
「何やってるんですか?」
「ん? 一年のテストを整理してる」
「は?」
「今までの、一年生の試験問題を整理してるんだ。今年の問題を作る上で、とりあえずやっておこうと思ってな」
「…持って帰ってやったらどうですか?」
「家で仕事はしたくない性分なんだ」
「………」
「数学だけなんだが、結構あるな。とりあえず、五年分だけでいいかと思ったんだが、それでもあるな」
肩を落として、息を吐いて。
それからまた、彼女は文字を打ち込んでいく。
話していても、その行動は止まることはなくて。
このままここにいたら、手伝えと言われるかもしれない。
そうは思うのに。
なぜか足は、動かなくて。
「一ノ瀬」
「…はい」
何です?
返せば、ちらと視線が向けられて。
けれどすぐに、その視線は画面へ。
「今日もおまえ、教師に頼まれていただろう?」
「………」
「断りづらいのはわかるが……まぁ、使えるものは何でも使えってところがあるから、断ったとしたら、完璧に評価は下がるか」
「?」
「頭の固い人間に使われたら。自分に手を差し伸べてくれた人間の好意ぐらいは、素直に受け取って、そして使え。おまえは、他人の能力を見極めることぐらいはできるだろ?」
「………」
「すべて抱えるようなことはするな。そのうち、潰れるぞ?」
「そんなこと…」
「じゃあ、誰かに当たるようなことはするな」
言われて、口を噤む。
彼女も俺も、黙ってしまえば。
響くのは、彼女がキーボードを叩く、その音だけになって。
別に……当たってはいないと思う。
当然のことを、当然のように、言ったまで。
そう、考えていれば。
「差し伸べられた手には、礼を言え。能力が足りないからといって、すぐに振り払うようなことはするな。『ありがとう』――たったそれだけのことだろう?
それともおまえは、そんな礼儀もわからないやつなのか?」
捲くし立てられて。
俺はわずかに、眉尻を上げる。
けれど、彼女もまた。
手を止めて、少し、怒った風で。
睨むような目で、俺を見ていた。
「人に伝え聞いただけだが。きちんと聞いたわけではないが。私は、そういう。相手のすべてを拒否して、振り払うようなやつは、好きじゃない」
「………」
「でも、おまえは違うだろう? 廊下で擦れ違った時。おまえはきちんと、頭を下げてくれる。挨拶をくれる。私が先生だからじゃない。ほかのやつらにだって、そうだろう?
顔馴染みなら、挨拶はしている。その姿を、私は何度も見ている。だからおまえは違う。だとしたら、苛つくのはわかるが、他人に当たるようなことはするな。顔馴染みなら特にな」
「………」
途中から、またキーボードを叩き出した彼女に。
俺は何も、言えないままで。
それでも。
俺は、一歩、足を踏み出す。
教室の――中へ。
「? 一ノ瀬?」
「手伝います」
「いや。おまえは疲れているだろうから、もう帰って……」
「手伝います」
もう一度言って、俺は彼女のそばの席に、腰を下ろす。
それに届けられたのは、笑いで。
失笑で。
「じゃあ、悪いが。チェックがついている問題を、解いてもらってもいいか?」
「これですか?」
「そうだ。簡単だろう? 一年の問題だからな」
くすくす笑う彼女に、眉根を寄せる。
何だか悔しくて。
それでも、それを口にするのは嫌で。
したらしたで、きっと。
また、悔しくなるのは、目に見えているから。
嫌で。
隣りでキーボードを叩く、その音を聞きながら。
俺は少し、躍起になりながら、数式を解き続けていた。
END
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