揺れているのなら
揺れていると 彼女が言うのなら付け入ることを 考えてしまうのは
きっときっと
仕方のないこと
気持ちと想い
彼女の手を引いて、店を出て。
歩きながら、どこに行こうかと考えてた。
それでも、足は一つの場所に向かっていて。
マンションに戻って。
彼女の手を引いたまま。
黙ったまま。
エレベーターに乗って。
扉が閉まるのと同時に、抱き締めた。
俺のことを知りたいと言われても。
何をどう、教えればいいんだろう?
知ってほしいことは、たくさんあるけれど。
それは、家のことでもあるけれど。
でも今は。
俺自身のことを、知ってほしいから。
「橘?」
手を伸ばして、エレベーターを上へと上げる。
動きはじめた籠に、彼女の表情は、わずかに不安の色を宿して。
それでも。
「たち……」
「名前」
視界が歪むほど――彼女の顔が、本当に目の前にある位置で、そう要求を口にした。
彼女は一瞬、目を丸くして、驚いたみたいだったけど。
すぐにくすくすと笑って。
「剣之助?」
そう、言ってくれた。
唇を重ねて。
彼女は、嫌がる素振りは、見せないでいてくれて。
今はまだ、重ねるだけでいい。
エレベーターが止まって。
扉が開く。
腕の力を緩めて、彼女の瞳を見て、外へ出ることを知らせれば。
彼女は一歩、脇へと動いてくれて。
俺はやっぱり、彼女の手を引いて、外へと出る。
空は青くて。
多分、この場所にある洗濯物は、桜川先輩の家のもの。
考えながら、奥へと歩いて。
それから。
「柊が知ってる、俺のこと。教えて?」
手を繋いだまま。
彼女と向き合って、そう問えば。
何度か瞬きをしたあとで、彼女は考え込むような仕草をして。
「鳥川柊個人としては……」
と、口を開いてくれた。
「橘剣之助。年下のお隣さん。気になるお隣さん。パティシエを目指してる、ケーキ作りを趣味にしてる、男の子」
「……あとは?」
『気になる』は、すごく嬉しかったのに。
『ケーキ作りが趣味』の部分で、少し、否定したい気になった。
あってはいるけれど…笑みで言ったのが、すごく気になったから。
「作るケーキは絶品で。はっきり言って、パティシエにはなれると思う。そのうち、本場に行って、ケーキ作りを見せてあげたいなっていう気になってる。あとは、褒めると照れるし、からかうと可愛い反応を見せてくれる」
「柊」
言葉を区切るように言えば、彼女は空いた手を口元に当てて。
笑って。
その…あとで。
「教師、鳥川柊としてですが」
「教師?」
「うん。私の仕事でも、剣之助のことは知ってるからね」
「………」
さらりと名前を綴られて。
俺は、頬が熱くなったのを自覚する。
彼女は微笑って。
でもすぐに、まっすぐに俺を見てくれて。
「私の教え子。受け持ってる教科、数学をはじめとして、成績は上々。ほかの先生方は、大学進学を勧めたがってる。バスケ部所属。そこでも、群を抜いてる。本人は知らないけど、何人か、プロの関係者が試合を見に来てたりしてる」
「…ウソ」
「本当」
また、笑顔。
その事実には、素直に嬉しいと言える。
けど、俺が進みたい道は、そっちではないから。
考えていれば。
「あと、学年主任から言われた。『彼は橘組という極道の家の長男だから、扱いに気をつけるように』って」
「え…?」
「はいって言っといたけど。本心は、平等に接するに決まってるだろうが!
というものでした」
――知っていた。
俺が、どう言ったらいいか、かなり悩んでいたことを。
彼女は最初から。
知って、いた。
「ケーキを作るのに、家じゃ抵抗があるって言ってたから。それかなって。考えたら、それしか思いつかなかったっていうだけなんだけど。でもきっと、それだろうなーって。長男ってことは、跡取りなんだろうし?
でも、夢を、家族の誰にも言えてないから、迷惑がかかるのかなって」
何も言えなくて。
無言の、肯定。
彼女は苦笑して。
「言わないと」
って、小さく言った。
「俺だって、そう思ってる。でも、何か……怖くて」
「じゃあ、諦めろって言われて。諦められるんだ?」
「……ムリ」
「じゃあ、やっぱり言わないと」
「………」
「それとも、口にできないほど、ちっぽけな夢なんだ?
パティシエっていうのは」
「違う」
「じゃあ、言えるよ」
言える。
静かな口調。
それは、言霊のようで。
「約束、しよっか」
「約束?」
問い返せば、彼女はこくんと、頷いて。
それから一歩、俺に近づいてくる。
「旅行……っていうか、実家に帰るって、言ったでしょ?」
「……うん」
「それね。あいつに…会いに行こうかなって」
「………」
向けてくる瞳に、眉根を寄せる。
辛くはないのか、とか。
どうして、とか。
聞きたいことは、たくさん……あるのに。
声が、出なくて。
「あいつの墓参り、行って。ちょっといろいろ、思い出してこようかなって」
「………」
「それでも…剣之助のこと、考えてたら。本気で、考えようかなって、思ってさ」
「………」
大きく目を見開けば。
彼女の笑みは、濃くなって。
「いろいろ、揺れたけど。でも。剣之助のそばにいたいって。今は…思ってるんだ」
「それは……」
「龍太郎と、剣之助と。どっちを取るかって聞かれたら。絶対、剣之助の方を取る。そう、結論、出しちゃったから」
本当?
本当に?
聞きたいのに。
問いたいのに。
「それに、一緒にいると、忘れるの。何もかも。あいつのことも、龍太郎のことも、学校のことも、何もかも」
「……」
「龍太郎と一緒だと、あいつのことばっかり、思い出すのに。頭の中、剣之助のことだけなの」
「……柊…」
「だから。あいつのとこに行って。それでも、剣之助のこと、考えてたら。思い出してたら」
手を離さないまま。
次に触れたのは、唇で。
すべてを離してから、抱き締めた。
胸の中の彼女は、俺の背に、手を回してくれて。
「自分の気持ち、確かめてくるから。その代わり、剣之助も頑張ろう」
「…わかった」
誰かと比べても、仕方がない。
俺の気持ちは、俺だけのものだから。
俺にしか、わからないから。
だったら。
彼女の気持ちだって、彼女にしか、わからないから。
俺は、できることをやって。
彼女の答えを、待てばいい。
「帰ってきて。剣之助のこと、まだ知りたいって思ってたら」
「俺の好きな場所、教えるから」
「…うん」
もう二度と、この温度に触れられない、なんてことはない。
そう、信じながらも、どこか不安で。
だからこそ。
腕を解くなんてことは、考えていなかった。
END
|