何て言うか
あのマンションの住人には
縁があるのかな?そう考えざるを 得なかった
課題
名前を呼んで。
返事をもらう。
その中の、『橘剣之助』という名前に、この子がそうかな?
と、わずかに考えた。
同じマンションの、同じ階に住む、高校生。
『橘』という表札だけしか見ていないから、何とも言えないのだけれど。
それが終わって、早速、授業の進め方を、軽く話していく。
「とりあえずは、教科書通りに進めていくが。数学なんていうのは、基本的なことが理解できていればいいからな。私が今までであまり使っていないと感じたものについては、省くことがある」
「それ、教師としては失格なんじゃないですかー?」
高校生だからか。
そうやって、野次が飛ぶ。
ちなみに、わたしが高校生だった頃は。
そうやって野次を飛ばす人間を、冷めた目で見ていたタチなんだけど。
「…幸田、だったな。言っておくが、教科書をすべてやろうなんて思ったら、一年じゃ足りないぞ?
毎日補習を受けたいというのなら、別だが」
「先生のだったらいいかも」
「そうか? なら毎日、山ほど課題を出してやろう。もちろん、提出は次の日だ」
「………」
「嫌だと思ったら、口を挟まないように」
笑みを浮かべて、シーンとなった教室を見回す。
よしよし。
うまく教師、できてるらしい。
考えて、もう一度話を戻す。
「繰り返すが、教科書通りに、一応は進めていく。が、省くこともある。予習をするのであれば、その辺りは確認しに来い。教諭室にいることが多いからな」
保健室にも、時々いるだろうけれど。
龍太郎は結構、生徒に人気があるようだから、授業中ぐらいにしか、訪れることはできていなくて。
それに、知られないように小さく息を吐く。
緊張の糸は、張りっぱなしだと、いつか切れる。
わかっているけれど、今、わたしが置かれているこの状況下では、どうしようもならない。
あと二・三人は、味方を作っておく必要があるかもしれない。
考えて。
「授業には教科書とノートがあればいい。あと、電卓を使いたいやつは持ってきてもいいが。暗算でやった方が、自分の頭のためだ。成績上げたいなら、数学を重点的にやっておけ。人の心を理解したいなら、文系だがな」
伝えて、教科書を開かせる。
そうしながら、ゆっくりと歩き出して。
自分で持っていた教科書を閉じた。
そして。
「橘、減点一な」
それで頭を叩けば。
痛みがあったことを、小さな声で、届けられた。
ちらりと見られて。
「おまえが悪いんだろう?」
そう、声を届ければ、ふいっと視線は、逆を向く。
小さくひそひそと聞こえた声は、女子生徒。
人気があるのか、どうなのか。
とりあえず、注目はされているらしい。
この、『橘剣之助』という生徒は。
「ほかのやつにも言っておくぞ。居眠りしているのを五回、見つけたら、課題を出す。授業がつまらなかったら、教科書の別のページでも見てろ。問題が解き終わっても、同じだ。わからないやつはそばにいるやつに相談してもいいが、答えは教えてもらうなよ。やり方がわからなければ、数学なんてのは、できてないのも同じだからな」
言いながら、教科書を開いて。
話を進めていく。
「どうしてもわからなければ、聞きに来い。ちゃんと答えてやる」
「………」
「……沖本、寝不足か?」
欠伸をしているのを見られたことに、肩を震わせて。
呼びかけた生徒が、ちらりと振り向く。
それに、息を吐いて、肩を下げて。
「何かあったのか? 沖本で合ってるよな?」
「…はい」
「つまらないか? それとも、普通に寝不足か?
夜、眠れないなら、私がよく聞くヒーリングミュージック、貸してやろうか?
ダビングして、やってもいいが」
「…あの」
「何だ?」
「……咎めないんですか?」
問いに、一瞬だけ、驚いて。
それから小さく、息を吐く。
「居眠りは…咎めるが。欠伸は別だ。沖本もそうだが、橘も。眠れない理由があるのなら、友達にでも何でも相談して。とっとと解決しろ。抱え込んでいても、いいことないからな」
「………」
「カウンセリングなんかは、受けない方がいいぞ?
わけのわからない、大人の事情を押し付けられるだけだからな」
「わけがわからないって……」
「わからないだろう? 答えは他人に押し付けられるものじゃない。カウンセラーを目指してるやつには悪いが、私は好きじゃない。なぜなら、答えは自分で探し出すものだ。自分で掴み取るものだ。そうだろう?
あそこは常識だって言って、それを押し付けられて。考え方を同じにしよう、みたいに、つまらない人間に作り変えていく場のような気がしてならない。私は――だが」
「………」
「人間が抱く悩みっていうものは、数学みたいに、簡単じゃない」
それは、自分に対しても同じで。
そしてまだ、私は答えを出せていない状態で。
そんなことを考えながら、教室の一番後ろで、振り返ると。
その中にいた、生徒のすべての瞳が、注がれていて。
私は大きく、息を吐く。
そのあとで、薄く笑みを浮かべた。
「おまえたちよりは、ほんの少し、多く生きているからな。その中で思ったことなんかは、私だけのものだ。それから得たものでよければ、アドバイスしてやるから。ただし、答えは自分で掴めよ?
後回しにすればするほど、辛くなるのは自分だが。その自分を見てくれている、周りのやつらも辛いんだってことを、忘れるなよ?」
言葉を発して、教壇へとゆっくり、歩いていく。
残り、五分。
まぁ、話は逸れたけど。
それでも、今日言おうと思っていた、授業に関することは、届けられたから。
「とりあえず、一学期。どこをどうやって、という説明をしようと思ってたんだが…半端だな。残りの時間は、質問にでも充てるか」
「質問?」
「そうだ。聞きたいことには答えてやる。どうする?」
「………」
すぐに質問は飛ばなくて。
溝を開けすぎたかもしれないと、少し後悔する。
この溝を埋めるにはどうするか。
少しだけ、考えて。
「鳥川柊。誕生日は5月28日。A型。年は聞くなよ?
これでも一応、女だからな」
小さく笑いが零れる。
それに私も、少し笑みを浮かべて。
「恋人は、今はいない。というか、当分するつもりもないが」
「?」
「……どうしてか、聞いてもいいですか?」
恋愛ごとには、女子の方が興味を持つ。
わかっていたから、した話。
「…悲しい想いを、したくないから……かな」
呟いて。
けれど、静かな教室では、きちんと響いてしまって。
「失恋…と言えば、そうなのかもしれないな。失くしたのだから。想いを届ける相手が……もう、どこにもいない、という点だけが、違うが」
思い出したのは、朱で。
冷たい、灰色のコンクリートで。
静かに、瞼を閉じた。
まだ、胸は痛みを発していて。
まだまだ、立ち直れないことを、私自身に、教えていて。
息を吐き出して、瞼を上げる。
と、その中の一人と、目が合ってしまって。
私は力なく、笑うことしか、できなくて。
「質問がないなら、終わりにするぞ?」
止めていた歩を、早めに進めて。
教壇と黒板の間のスペースに、立つ。
「悪いことを聞いた、とか思うなよ?
これは私が抱えている問題。おまえたちが気に病むことはない。気にしてくれるんだったら、私が早く、これを解決できることを願ってくれ。あとは…そうだな。数学、頑張ってくれ」
くすくすと控えめに、笑いが聞こえて。
私はもう一度、笑みを浮かべる。
解決方法は、時間が経つこと。
それから、新しい恋を、することなんだろうけれど。
できるという自信が、今の私には、ないから。
考えていれば、チャイムが鳴って。
「んじゃ、終わりにするか」
そう言葉を発すれば。
日直がきちんと、終わりの号令を、かけてくれた。
数学教諭室で、大きく息を吐く。
あんなことを話すつもりは、なかったんだけど。
考えて、もう一度息を吐く。
「だめだなぁ…」
ひとり、呟いて。
窓の外へと、目を向けて。
「頑張らなくちゃ」
そう、言葉を発してみた。
END
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