「私は、そうは思わない」
そう言ってくれた先生に、わたしは目を細めた。
声
氷室先生にしては、珍しいなーとは、解き終わったあとで思った。
しかも本人、誇らしげな顔をして教室内を歩いてるし。
黒板には、図形。
先生らしく、円は全然崩れてはいないし、直線もまっすぐで。
だからこそ、それが描かれたあとに放たれた言葉は、わたしには宣戦布告としか思えなかった。
授業が終わるまでは、あと十分。
氷室先生が、このクラスの中で、唯一この問題を解けるだろうとか思っている人物は。
わたしの真後ろの席で寝息を立てていて。
それを確認したあとで、わたしは小さく息を吐いた。
窓の外へと視線を映す。
ぼんやりと鏡のようになっている窓の向こうで、どこのクラスかはわからないけれど、体育をやっていて。
かすかに聞こえる声に、わたしはふっと笑みを浮かべてみた。
そのあとで動いた影に、目を移す。
別にやらなくてもいいって言われたのにもかかわらず、有沢さんは頑張っているようで。
そのノートを覗き込んだ氷室先生は、何かアドバイスをしたようだったけれど、すぐに離れていった。
あ、やっぱり誇らしげ。
自分が放った言葉は正しかった、とか思ってるのかな?
考えながら、窓の中を移動する氷室先生を見る。
まぁ、そう思ってられるのも、多分……今のうち。
にんまりと笑みを浮かべて、氷室先生が来るのを待つ。
シャーペンを置いて、ノートの上に頬杖を突いて。
窓の中の彼を見れば。
いつもと同じように、机に突っ伏していて。
目立つよなぁ、なんて、その髪の色を見ながら思ってた。
今、氷室先生、誰のとこなんだろう?
思い、視線を動かす。
と、すぐそばにいた。
窓の中、彼のそばに立って、眉間に皺を寄せて。
それでも、やらなくていいと言ってしまった手前、怒ることも出来ないみたいで。
氷室先生はため息を吐いていた。
そのあとで、わたしへと視線を向ける。
平静を装って、先生が何か言おうとするのを待っていると。
やっぱり、授業を放棄しているように見えたんだろう。
頬杖を突いて、窓へと視線を向けているわたしの方に歩を進めてきた。
から、わたしは振り向いて。
急に目が合って、びっくりしている先生に笑みを向ける。
それから、トントンッと指でノートを叩いた。
覗き込む先生に、わたしは笑みを濃くして。
どんな反応を見せてくれるんだろう、なんて、わくわくしてたりして。
――数秒後。
氷室先生は慌てたように身体を起こして。
五分前に解説する、なんて言っていたのに、それよりも二分早い時間なのに。
「解説をはじめる」
と、黒板へと早歩きで行ってしまった。
顔は苦いもので、慌てたようで。
それでもう、わたしは勝った! と、嬉しさでいっぱいだった。
「もうさー、はっきり言って許せなかったんだって」
HRが終わって、少しして。
ようやく目を覚ましてくれた彼に、わたしはぶちぶちと数学の時間のことを一部始終、報告していた。
「俺は…そうは思わなかったけど」
「それは、君が男子だから! 女子には解けない、なんて言われて、黙ってられますかっての!」
彼の机に両手で頬杖を突いて、頬を膨らませて。
そう言えば。
彼からは失笑が返った。
「ガキ」
「煩い」
言われて、睨んで。
「でも勝ったもん」
笑みを浮かべれば、やっぱり「ガキ」とまた言われてしまった。
それでも、勝ちは勝ち。
女子であるわたしが、あの問題を解けたのだから。
氷室先生の考えも変わるだろう。
放課後に入って、少し経った教室は。
もうすでに、わたしたち二人しかいなくて。
「そう言えば、今月はどこにも行かないのか?」
聞いてきた彼の声が、静かに反響していた。
もうすぐ試験だし、当たり前かなーなんて思うけど。
「行きたいとこはあるんだけどね?」
「行きたい場所?」
「そう。でも、君は誘わない」
「どうして?」
「寝ちゃってそうだから」
「………」
「有沢さんとか、守村くんは平気そうだけど。でも、もうすぐ受験じゃん?
勉強で忙しそうだから、誘えないのですよ」
「つまり…そういう堅苦しいところってことか?」
「そう…なるのかな?」
うん、そうだね。
一人で納得して、頷いて。
わたしは立ち上がった。
鞄を手にすれば、彼も立ち上がって、同じように鞄を手にして。
二人で教室を出るために歩き出す。
「ちょっと遠いんだけど、文化会館?
あるんだよね。そこで、弦楽器の三重奏やるんだって。行きたいなーと思ってね」
「……本当に好きなんだな」
「好きだよ? 弾けないから、聞くんです」
「で? 一人で行くのか?」
立ち止まって、考え込む。
教室を出るためには、あと数歩、歩く必要があって。
一歩後ろにいる彼も、立ち止まってわたしを見ていて。
「君は誘えない。有沢さんも守村くんも誘えない。となると、一人だねぇ」
「もの好き」
「どうしてそうなるわけ? 君、昔習ってたんでしょう?」
「と言うか、玲には似合わない」
「………」
振り返って、舌を出して。
「もういい、置いてく。一人で帰る!」
言い捨てて、走り出した。
時々だけど、彼はいじわるになる。
理由はわかるけど、それだけに悲しくなる。
わたしのこと、好きなんじゃないの?
迷惑だとは思ってないけど、受け入れられない、って思っているくせに、こんな時だけ。
そんなことを考えながら教室を出る。
と、目の前に誰かがいて。
わたしは足を止めようとしたんだけど。
見事に、その人にもたれかかっちゃいまして。
支えてくれたからよかったんだけど。
とにかく、すぐにその人から離れて、わたしは頭を下げた。
「すいません!」
「いや。ただ、もう少し落ち着きを持つように」
口調に、わずかに顔を上げる。
見えたのは、見慣れた色のスーツ。
後ろから聞こえた足音は、彼のもの。
「ひ、氷室先生!」
あちゃー…なんて、項垂れた。
額に手を当てて、それでも、「田端」と呼ばれたことにきちんと身体を起こした。
あーもう。
優等生っていう『レッテル』は、剥がされたかもしれない。
「聞いているのか?」
「聞いてます。もう少し落ち着きを…ですよね?
授業中は持ってやってるんですが」
「授業中だけでなく、常に持つように」
「はい」
「それと……」
ちらりと後ろの彼に瞳を向けた後、氷室先生は眼鏡のブリッジを押し上げた。
言い淀んだことに、理由はあるのかな?
思いながら、次の言葉を待つ。
何だろう?
って。
今の言い方とか、表情から察するに、悪いことじゃないみたいだ、とも思う。
すると、先生はわたしへと瞳を向けてくれた。
「立ち聞きしていたようで悪いのだが……私も行こうと思っている」
へ?
行くって…どこに?
わたしはわずかに首を傾げる。
立ち聞きしてた、って、先生は言ったよね?
ということは……。
「弦楽器の三重奏…ですか?」
「そうだ」
頷いた氷室先生に、わずかに期待。
これは一緒に行きましょう? と誘ってもいいのかな?
「あの…じゃぁ……」
「チケットは取っておく。当日、家まで迎えに行くから、用意をしておきなさい」
「は、はい!」
握り拳を作って、喜んじゃって。
そんなわたしに、氷室先生は「気を付けて帰るように」と発して、歩いていってしまった。
その背中を見ながら、わたしは両手を挙げる。
「やったー! 一人で行かないですんだー!」
言いながら振り返る。
彼は不機嫌を隠さずにそこにいて。
氷室先生の背中を、ただただ睨んでいた。
目の前に立って、彼の顔を見上げる。
怖いなーとは思ったけど。
でもやっぱり、彼は綺麗だった。
「はーづきくん。帰ろう?」
言えば彼は、わたしへとそのグリーンの瞳を向けてくれて。
一歩、足を踏み出した。
「玲」
「んー?」
あとを追いかけるようにして、歩き出す。
見上げた顔は、まだ怒っていた。
不機嫌を宿した瞳には、はっきりと怒りの色があって。
このあとに言うんだろう台詞は、容易に予測できた。
「行くな」
やっぱり?
思いながら、わたしも口を開く。
「嫌だ」
「……玲」
「相手は先生だよ? それに、行くって言っちゃったし」
「取り消せばいいだろ?」
「嫌です。さっきも言ったけど、先生なんだから、生徒には手を出さないでしょ?」
「それでも、男だろ?」
「…心配?」
聞けば、彼は黙り込んで。
そのあとで、彼の顔からは怒りは消えてた。
「葉月くんって結構、感情が顔に出るよね?」
笑って言って。
「おまえほどじゃないだろ?」
言われて、顔を顰めれば。
彼の笑い声が、無人の廊下に響いてた。
受付で受け取ったプログラムを客席で見てた。
三重奏だから、奏者は三人。
オーケストラとかも好きだけど、聞きに行かない理由はここにある。
奏者が少ないから、プロフィールも詳しく書いてあったりして。
それに、そんなに堅苦しくないとわたしが思うのは、MCがあるっていうこと。
前に、お母さんと来たんだよねー…、なんて思いつつ、前に見たのと同じ名前を発見して。
またおもしろい話が聞けるかも――と一人で期待を膨らませてた。
「元KCH交響楽団の奏者か」
隣から声が上がって、わたしは顔を上げる。
先生も同じように、同じページに目を落としていた。
三人ともが、氷室先生が言っていたように、元KCH交響楽団の奏者。
それだけでもう、期待が持てる。
チャリティーだから、チケット代は安いし。
堅苦しくないから、服もあんまり考えなくていいし。
「僕らみたいな高校生でも来易いですよね?
堅苦しくないし。小さいホールですし、お互いの距離が近いから、心も通わせることができる。演奏だけじゃなくて、技術も見ることができるじゃないですか」
「君は――…」
「はい?」
「こういう場には、何度か来たことがあるのか?」
「二度ほど、母と一緒に」
「そうか」
小さく頷いて、先生は納得したようで。
また、プログラムへと瞳を落とした。
そんな氷室先生を見止めて、わたしはステージへと視線を移す。
灯かりがすでに付けられたその中央には椅子が三つ。
そばに、マイクがスタンドに収められて、立っていた。
プロフィールによると、今日はヴァイオリンとヴィオラとバス。
嬉しくて、わくわくして、落ち着かなくて。
はじまるまでのあとわずかな時間。
わたしは何度も視線の先を変えていた。
曲名とか、そんなものはわからなかったけど、わたしは満足してた。
話もおもしろかったし。
そんなわけで、わたしは送ってもらっている車内で、笑みを浮かべてた。
耳に残っている声とか音とか。
それを楽しんでいたのだけれど。
「田端」
「あ、はい」
急に呼ばれて、わたしはそう、返事をした。
エンジン音が響く中、氷室先生へと視線を向ける。
CDもラジオも掛けないから、本当にエンジン音だけだった車内。
氷室先生の声が、そのエンジン音に混じって聞こえてくる。
「君は…音楽が好きなのか?」
「はい。好きです」
「そうか」
「もしかして…もっと早く知っていたら、とか思ってますか?」
「そうだな。もっと早く知っていれば、いろいろ誘ったんだが」
「仕方ないですよ。あんまり話しませんでしたから」
「確かに。君のことは、もっとおとなしい生徒だと思っていたからな」
「でしょうねぇ……」
やっぱり、レッテルは剥がされたかもしれない。
嬉しいのかそうでないのか、結構微妙なんだけど。
「やはり、授業態度だけ見ていたのでは、難しいのかもしれないな」
「…そうですか?」
「君が負けず嫌いなのだと知ったのは、ついこの間のことだしな」
………。
思考停止。
弁解する余地もないな、とわたしはもう、諦めていた。
数学の授業中のことだけだったら、何とかなったかもしれないけれど。
そのあとに、彼と話して、廊下に飛び出しちゃったしなぁ。
しかも次の日、なっちんたちと盛り上がっちゃってるところを見られたっていうのも、あるし……。
確かに、おとなしいイメージは払拭されちゃったかもしれない。
「でもあれは、氷室先生も悪いんですよ…?」
おずおずとそう発すれば。
隣りから漏れたのは、短い笑い。
「君以外に、あの問題を解いた女生徒はいなかったのでな」
「それは今までの話でしょう?」
「そうだが、考え方が男女で違うのは知っているか?」
「聞いたことはありますけど……」
「そうか。とにかくその関係で、あの問題は女子には解けないとされている」
「つまり、実行したのは氷室先生だけじゃないってことですか?」
「そうだ」
ハンドルが切られて、身体が傾ぐ。
耳にはもう、エンジン音しかなかった。
それが少し、残念に思ったのだけれど。
「私が解けるだろうと踏んでいたのは、君の後ろの席の葉月だけだった」
そこに飛び込んできた名前に、わたしは眉根を寄せる。
そして、バイブにしていた携帯が着信を知らせて。
わたしは急いで、持っていたバッグから携帯を取り出して。
折り畳みのそれを開けた途端、目に飛び込んできた名前に、小さく息を吐いた。
折り畳んで、バッグへと戻す。
氷室先生は何か言いたそうにしていたけれど、黙っていて。
「聞いても…いいですか?」
バッグの中。
携帯を掴んだままで、わたしは口を開いた。
先生は何も言わずにいて。
「恋愛は、まだ早いとか…そんな風に思いますか?」
震えている携帯を握り締めて。
わたしは答えを待っていた。
何て答えてほしいのか、とか。
何を言ってもらいたいのかとか。
わたし自身、よくわからなかったけど。
「私は、そうは思わない」
そう言ってくれた先生に、わたしは目を細めた。
携帯はもう、止まっていて。
それでも、わたしはそれを離すことはできずにいて。
「――好きな人がいるんです。でも、それを言うことができなくて」
「何故?」
「自分でも……よくわかってはいないんです。それでも、彼のそばにいてはいけない、みたいに考えちゃうんです」
「わかっているのではないか? ただ、私にそれを言えないだけで」
「………」
「理由はわからないが、君の考え方が間違っているとは思わないし、言わない」
「そう…ですか?」
「そう言ってほしいわけでもないのではないか」
何も言えずに黙り込んで。
答えをくれるわけじゃないんだな、と。
わたしは少し、ほっとしてた。
「もし間違っていたとしても、誰もそれを責めることはできないだろう。何故なら、君は、相手のことを考えて、行動しているからだ」
「その通り…です」
「授業中だけでも、これだけは言える。君は自分よりも、周りのことを一番に考えている。となれば、そのぐらいはな」
さすがだなぁ、なんて思いつつ、顔を上げた。
手から力を抜いて。
それでも、手の中に携帯を収めたままで、わたしは「ありがとうございます」と紡いだ。
頼っちゃってもいいのかなぁ、なんて、わずかに考えて。
でも、あと一ヶ月もないんだと気づいて。
わたしは窓の外へと視線を向けた。
そう、あと一ヶ月もない。
その間だけ、わたしは『わたし』を偽ればいいんだ。
「相談ぐらいには乗ろう。私には、それぐらいしかできないからな」
ポツリと落とされた言葉に、わたしは驚いて。
それでも、笑みを浮かべて、頭を下げた。
着いて、車を降りる。
氷室先生が座っている方へと足を運べば、窓を開けてくれて。
わたしはぺこりと身体を折った。
「ありがとうございました」
「いや。私も楽しかった。また機会があればいいのだが」
「何か見つけたらお話します。それと……」
「言われなくても心得ているつもりだ。念を押す必要はない」
「はい」
微苦笑で答えて、わたしは一歩下がる。
「それから、言葉づかいには気を付けるように」
「はい?」
「女性が『僕』などとは言わないものだ」
後頭部に手を当てて、またもや苦笑。
多分、治らないとは思いますけど…とも言えずに、笑ってごまかすしかなくて。
そんなわたしに向けられていた氷室先生の視線は、柔らかくて。
「では、明日。遅刻などしないように」
「はい」
答えれば、窓は閉められて。
直後、エンジン音が響いた。
ちらりと視線を向けられて。
わたしは小さく会釈して。
柔らかな微笑みを見たと思った瞬間、先生の愛車は、そこから走り出していた。
それを少しの間、見送って。
息を吐き出した直後に、踵を返す。
「さて、何て弁解しましょうかね?」
また震え出した携帯を取り出して、呟いて。
嘘でも吐いておこうかと結論を出したあとで。
わたしは通話ボタンを押した。
「もしもし? 葉月くん?」
END
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