時季は梅雨。
だから、外の天気は聞かなくてもわかるもので。
それでも彼女は、楽しそうに笑っていた。
銀糸
スタジオがあるビルの出入り口で、彼はわずかに逡巡して。
開いた自動のそれをくぐらずに、彼は空を見上げた。
どんよりと、暗い空。
灰色の空。
そこからは雨が降り注いでいて。
景色のすべてが重く見える。
何か悲しく見えるな、と考えて。
彼は小さくため息を吐いた。
手にしているのは真っ白の傘。
それにだって、乾き切らなかった雫が、水玉模様のように、そこに張り付いていて。
これで彼女がいなかったら、家までの帰り道は、とても暗いものになりそうだな、と考えたあとで。
彼はようやく、そこから一歩を踏み出した。
扉をくぐって、もう一度、空を見上げて。
息を吐いたあとで、傘を開こうと手元へと視線を落とす。
と、影が降りた。
顔を上げなくても、前にいる人物の靴には見覚えがあって。
「珪くんも今帰り?」
かけられた声でさえ、聞き慣れたもので。
「ああ」
視線を上に向けながら、笑みを作れば。
そこにあったのは思った通りの、彼女の微笑みだった。
赤い傘を差して。
だからかはわからないけれど、彼女の周りだけが、なぜか明るく見えて。
よくよく見ればその傘は、自分の方に差し出されていた。
彼女の手を引いて、隣りに立たせて。
それから、彼は傘を開く。
飛沫がかからないようにと、したことだったのだけれど。
彼女は終始、首を傾げたままで。
それに一つ笑みを零したあとで、彼は雨が降りしきる中へと足を踏み出した。
ゆっくりと歩き出せば、彼女も隣りへと歩を進めてきて。
「珪くんも、雨…好き?」
そんなことを聞いてくる。
から、彼は素直に首を振った。
「いや…。どちらかと言えば、嫌いだ、俺」
「そうなんだ……」
俯いてしまった彼女に、わずかに不安になって。
『も』って…聞いてきたよな?
と、思い出す。
「おまえは好きなのか?」
聞けば、さっきとは打って変わって。
極上の笑みで、彼女は「うん!」と頷いた。
ほんの少し、傘から手を出して。
彼女はその手に、雫を受ける。
「これぐらいの雨なら、全然好き。もう少し強くなると、怖さの方が先に立っちゃうんだけど」
「どうして?」
「雨が好きな理由?」
「ああ」
「うーん…、梅雨、でしょう? 今」
「だな」
「で、この時季に雨が少ないと、世間は水不足って騒ぐよね?」
「…ああ」
彼女が何を言いたいのかはわかったけれど。
彼女の言葉でそれが聞きたかったから、彼は先を促していく。
嬉しそうな顔で言葉を綴る彼女に、彼も同じように笑みを浮かべて、それを聞く。
「だからね? この時季の雨は、恵みの雨なのかなって。何か、優しくて…あったかい気もするし」
ね? と同意を求められて。
彼は一度、空を見上げた。
灰色の空からは、絶え間なく銀色の糸が降り注いでいて。
それでも、三月の、春になる直前に降る雨よりは、確かに優しく思えて。
あれは……地を打ち付けるようなものだからな、と思い出しながら、彼は「かもな」と、彼女に届けた。
「だからね? この時季の雨は好きなんだ」
もう一度言われて、彼女に顔を覗き込まれて。
「珪くんも、好きになってくれる?」
問われた言葉に、彼はしっかりと頷いた。
彼女が好きだと言うものは、自分も好きになれるようにしようなんてことは。
彼にとって見れば、あたりまえのことで。
彼女のように、普段見ているものも、べつの面から見れば、確かに違うものに見えるから。
それをまた、彼女に教えてもらおうとか。
逆に教えられたら、とか考えて。
彼はもう一度、灰色の空へと瞳を投げた。
END
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